『人魚の眠る家』あらすじと読書感想文の書き方例文

2018年に映画化の「人魚の眠る家」

東野圭吾作家デビュー30周年記念作品の「人魚の眠る家」
娘の小学校事件が終わったら離婚する。
そう約束した仮面夫婦の二人。
彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前。
娘がプールで溺れたー。
病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。
そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。
過酷な運命に苦悩する母親。その愛と狂気は成就するのか。
愛する人を持つすべての人へ。感涙の東野ミステリ。

 
脳死は人の死か?との問いにはっきりと答えを出せる人はおそらくいないのでしょう。
その問題を突き付けられた時、それぞれの立場からその人をどうみつめるかが問われるのが本作です。
 
映画化される作品は読書感想文としては大変おススメです。
もちろん本作から映像化するにあたり、ギュッと濃縮されたりカットされるシーンもありますが、本を読むのが苦手な人には映像化作品はかなり楽になります。

こちらでは
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『人魚の眠る家』あらすじ(ネタバレ)
『人魚の眠る家』読書感想文の書き方2例

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『人魚の眠る家』あらすじ(ネタバレ)

  

『人魚の眠る家』東野圭吾
第一章 今夜だけは忘れていたい
播磨薫子は、株式会社ハリマテクス社長・播磨和昌と結婚し、瑞穂と生人の2人の子供を授かった。和昌が浮気をしたことで別居・離婚寸前の状態だが、薫子は瑞穂の小学校受験が終わってから離婚することを考えていた。
瑞穂の塾で受験の模擬面談を夫婦で受けようとしていた最中、事故の連絡が入る。祖母、妹、従姉妹とプールに行った瑞穂は溺れ、脳死状態となってしまう。瑞穂の絶望的な状況に夫婦は脳死を受け入れ、臓器移植も視野に入れたが、生人の声に反応したかのように瑞穂の手が動いたことから、薫子は介護の継続を希望する。

第二章 呼吸をさせて
自宅介護することになった瑞穂は、和昌の会社の呼吸を補助する最新機器によりまるでただ眠っているだけの少女のようだった。部下の星野に電気刺激で手足を動かすリハビリを依頼し、星野も薫子からの絶大な信頼を受け、この特別任務にやりがいを見出し、恋人や先輩社員の意見も耳に届かなくなる。

第三章 あなたが守る世界の行方
星野は恋人真緒の存在よりも、薫子へと関心が移っていた。自分から心が離れているのを察した真緒は星野を尾行し、播磨家にたどり着く。薫子に屋内に招かれ瑞穂と二人きりにされた時、電気刺激のエコー現象で勝手に動く瑞穂を見て逃げ出してしまう。
和昌の父・多津朗は瑞穂を動かす処置に「人の体を電気仕掛けにして、神を冒とくしとる気がする」と薫子や瑞穂を避けるようになる。

第四章 本を読みに来る人
瑞穂は養護学校に進学し、自宅教育をする教師新章房子が訪問してくるようになる。
新詳は、瑞穂に朗読を行うが、薫子がいない間に朗読をやめているその背中に虚しさを称えているように感じる。朗読内容も、童話の形を借りて「脳死した子供を生かし続けることに意味はない。臓器移植が必要な子供に、臓器を渡すべきではないか」と言っているようであり、薫子は房子のことを訝しく思う。
また新章のかばんの中に渡米心臓移植を待つ雪乃の為の募金活動のポスターを見つけ、新章を装い、活動に参加する薫子。
薫子は日本での臓器移植の実態を知り、ドナーとなりうる脳死の瑞穂のような存在がいるにも関わらず、国内で脳死患者からの臓器移植が進んでいない現状に疑問を感じ始めていた。
だが雪乃の両親は「ドナーが現れるのを心待ちにするのはやめよう…移植手術は要求や期待したりするものではない…どんな状態でも親にとって大切な一つの命」との意見を聞き、ボランティア代表の門脇に100万円寄付するが、雪乃は渡米できず死んでしまう。
薫子の多額の募金から正体を調べられ、薫子が房子を名乗っていたことが、房子自身にも伝わる。房子は臓器移植を行うよう勧めるつもりもなく、童話の朗読を中断したのは「自分の心が朗読する状態になっていなかった」からであり「自分が瑞穂にしてやりたいことをやろうと考え、それが瑞穂と薫子が語り合う材料になると考えた」と語った。

第五章 この胸に刃を立てれば
介護生活は二年半以上経ち瑞穂は9歳。
和昌は瑞穂の表情まで機械で動かそうとする薫子への違和感を感じ、社内から星野の扱いを問題視され初めていた。父の多津朗からも「(瑞穂が)生きてると思っているのか?」との問いに即答できない自分にショックを受ける。
薫子は弟の生人の小学校入学式に瑞穂を連れて行き、周囲の保護者や子供たちの反応から生人は「ママが生きてるってことにしてるだけ」と言うようになる。さらには妹の美晴や姪・若葉も瑞穂が「死んでいる」と心の中で思っていることに、悲しみや憤りを感じる。
生人の誕生日会を開くと張り切る薫子だが、生人は友達は誰も呼ばず周囲に「瑞穂はもう死んだ」と言ったと告白。薫子は自分だけが周囲と心の温度差ができた事に怒り包丁を持ち出し、瑞穂の胸に突き立て、自ら警察を呼び「この子を殺したら殺人罪にあたるのか?」と警察に問いただした。
瑞穂の事故は従姉妹の若葉がプールに落としたビーズの指輪を拾おうとしたせいであったことを告白し、責任を感じていた若葉は瑞穂が死んだと思いたくないと唯一言ってくれるのだった。
薫子は気持ちを落ち着かせ、生人に学校で瑞穂の話はしなくていいというのだった。

第六章 その時を決めるのは誰
薫子は、次第に人前に瑞穂を積極的には出さず、2人きりの親子の時間をゆっくりと過ごすようになった。
1人の少年・宗吾が瑞穂に興味を持ち「紙飛行機が入ってしまい、とりに来た」と言い訳をして播磨家にやってきた。「いつ目をさますの?」との質問に薫子は「世の中には、歩きたくても歩けない人がいるの」など、曖昧に答える。宗吾は、瑞穂のことを「眠った人魚」のようだと思う。
薫子の夢枕に瑞穂が立ち、別れを告げた後から、急激に瑞穂の病状は悪化した。
そして、薫子は瑞穂の脳死を受け入れ、臓器移植に同意するのだった。

エピローグ
瑞穂の心臓を移植した少年は、宗吾だった。
なぜか手術を受けて以来、あの屋敷に呼ばれているような気がしたが、そこはすでに空地となっていた。
だがふっと薔薇の香りを感じることがあり、この命をくれた子供は深い愛情と薔薇の香りにつつまれ幸せだったに違いないと確信するのだった。

物語が動くのは第四章と第五章
話の流れに展開があるのは第四章での教師、新章房子の存在から薫子が臓器移植について悩む事と、第五章の薫子と家族や周囲の人との気持ちの温度差がついてしまう展開でしょう。

・脳死の子供の存在を生かし続ける事は自己満足なことか?
・脳死で感情も思考もない人への寄り添い方はどうするのが良いのか?
・臓器移植のドナーにならないのはエゴなことか?
・脳死の人の体を刺したら殺人にあたるのか?
・脳死は人間の死か?

などなどの問題定義があるので、読書感想文の中でこれらについて論じる題材はたくさんあります。
  

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『人魚の眠る家』読書感想文の書き方2例

『人魚の眠る家』は幼い脳死の娘と母親中心に、死や親子愛を問う作品ですが学生や未婚の人などは立場や視点を変えて「自分が介護される立場なら」という論点で読書感想文を書くのも面白いかもしれません。

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脳死を認めないのは本当に愛か?の感想文例…文字数3350
 
ある日突然、最愛の家族が事故に遭い、おそらく脳死であろうと医師から告げられたら?自分はどうすればいいのか、この答えのない物語が『人魚の眠る家』です。
脳死とは言葉の通り、脳が死んでしまう事。
生物は脳の働きにより、呼吸や体温調整、体を動かす事ができます。ですが脳だけは機能停止しても心臓も内臓も動けば脳だけが死んでいる状態になり、果たしてそれは人の死なのかどうか?厳密には判断できないのです。ですが意識のない肉体の健康な内臓は、明日をも知れない命の内臓移植を待つ人たちに待ち焦がれているのも事実です。

6才の愛娘、瑞穂がプールの事故で脳死になり離婚寸前の夫婦でも娘の快復を祈る気持ちは共通しており延命措置をとります。
障害者の身体機能を機械で補修する研究の会社社長の夫は娘にコンピューターで自発呼吸させる事を思いつく。妻は機械で筋肉を動かすトレーニングで腕や表情まで動かそうとする。電気仕掛けにされたその脳死の娘に対して「髪を冒とくしているような気がする」「母親の自己満足ではないか」などの周囲からの非難の声にも母は譲らず「子どものために狂えるのは母親だけ」と、意識の戻る事のない娘を諦めないのです。

 大切な人、かけがいのない人の命が尽きてしまった時、なぜこんなことに至ったのか?何が悪かったのか?怒り、恐怖、悲しみなど止めどない喪失の念を抱いてしまいます。そして神様に願ったり、恨んだり「もし~してくれるなら何でもいうことを聞きます」「どんな姿でもいい。命だけは助けてください」など交換条件まで出してしまうものです。そんな極限の心理の時にわずかにでも回復しそうな兆しを感じられたならその方法に取りすがるのが人の心なのかもしれません。

本作では瑞穂の母親・薫子と祖母がその介護にあたるのですが、弟の生人や祖父の生活は後回しにされても生活の中心を瑞穂に置き、介護の辛さや苦労などは感じている様子はありませんでした。薫子が瑞穂を機械仕掛け化を進め「状態が良くなる」と一種の狂気をまとった状態となります。
一方で海外での心臓移植を望む幼い女の子のための二億六千万もの募金を募る活動をしている人々もいます。臓器移植を望むボランティア団体の人々は命の期限があるために、公明正大でありながらもなんとなく募金の強要をしているような雰囲気に片目をつぶりながら活動をしています。幼い命の火を消さない為に必死だからです。

介護とはゴールの見えない重圧を抱えた日常だと思います。
それを続けていくには何かしらの強い信念や理由がないと出来ないのではないかと思うのです。『狂う前』の薫子はこの介護状態に葛藤、苦悩が生じるのです。それを感じさせたのが訪問学級の教師、新章房子の存在でした。新章は瑞穂に対して虚しさを感じているような疑念を感じさせた事から、彼女が興味を持っている様である臓器提供を望むボランティア団体に新章に扮して近づき言うのです。
「意識がなく、当然意思の疎通を図ることもできず、生命維持装置の力でただ生かされているだけの子供の世話を、ずっと続けていくんですか。ものすごくお金がかかり、御自分が大変なだけでなく、いろいろな人に迷惑をかけることになります。それで一体誰が幸せになるというんですか。親の自己満足だとは思いませんか。」
薫子は瑞穂の存在が重荷になった訳ではありません。ただ瑞穂の存在の陰に瑞穂から命を繋げる子供がいる事を知り、自信を無くすのです。そこにはきっと薫子自身この介護生活は自己満足の為では?という葛藤が含まれていると私は思います。
 世間には大変長い年月を家族の介護にあたる人もいます。もちろんいつ逝ってしまうかわからない大切な家族に対して心身が疲弊してくるのは免れないと思います。多くの介護生活には完治寛解するというゴールよりも死をもって終了とするのが多いのかもしれません。その場合『予期悲嘆』という被介護者が亡くなってしまうであろうという悲しみの感情を、介護の最中から味わい、本当に亡くなった時には感情が燃え尽きてしまっているような心情になる事もあると言います。つまり最初から負け試合と言えるのかもしれません。ですが見方によれば、被介護者との別れを覚悟するまでの心の準備期間を過ごせるとも言えます。

物語では瑞穂の病状は変わらなくとも、家族や社会は年月が経ちと状況も心情も変わり父親は介護生活に潮時も感じ始めるます。
一方の薫子はボランティア団体の人々が瑞穂のような存在を恨めしく思っている訳でもなく、新章の言う「一番大切なのは自分の気持ちに正直であること…人の生き方は論理的でなくともいいと思う」「…自分がしてやりたいことをやろう…私が心穏やかでいられる思いが伝わればいいなと思います」との答えを聞いて自分の度を越えた思いの丈で介護を進めていき、瑞穂をめぐり家族とも心が離れるのです。

ですが誰も薫子を制止する権利はないのです。本書のテーマである「脳死」を人の死と認めてしまう事は本人以外がその命を否定してしまう事と言えます。それをするのは命の有無を左右するに等しいからです。
またこの世界のどこかでは自分の家族が臓器移植のドナーとして誰かに命をつなぐことに同意した人もいます。
私たちはそんな事象を知ると「大変な決断をした崇高な素晴らしいご家族なのだろう」と単純に頭が下がる思いを感じます。でもドナーの家族の方はきっと世間にその勇気を褒めたたえられるのを望んでしたことではなく、あるとしても一つには亡くなった家族の命を繋ぎたいという思いなのでしょう。それにドナーにしたことは本当に正解だったのか?と言いきれない複雑な思いは必ず残るのではないかと思うのです。

私たちは明日は普通に来るものだと当たり前に思い過ぎています。
今日一日を健康に過ごし、ケガも事故も病気にもならず無事に家に帰り「何もない一日だった」と寝床に入れることがどれ程幸せな事なのか、失うまで気づかないのが人間なのかもしれません。
薫子は瑞穂の存在を抜きにしても孤独で不幸だったから、瑞穂への行き過ぎた介護を行ったように思います。
たしかに心から大切な存在の命を守りたいと願う気持ちは自然な感情だと思います。ただ誰にとっても不自然で幸せとは言えない状態の命に執着するのは、ひとつの依存だと思うのです。瑞穂がギリギリでも生きている状態が薫子の承認欲求を満たす条件のように感じ「自分の気休めのために娘の体を玩具にしているだけ」「ほんとはとっくの昔に死んでるんだけど、ママが生きてるってことにしてるだけ」などと義父や幼い息子の苦言は的を得ているように感じ、瑞穂と薫子が対等で自由な関係なのだろうか?と思えるのです。

もし私が薫子の立場になった時、同じような介護ができるとしても消えそうな命に取りすがりたくないと思います。「子どものために狂えるのは母親だけ」と薫子は言いますから、たしかに簡単に命を諦める事はできないでしょう。ですが愛する存在だからこそ、その命を本人の生命力に任せるのは尊厳を守る事だとも思うのです。
きっとそれができるのは、思い残すことのない愛情を注げたと自信を持てた時と誰かの命に責任を持った時なのだと思います。
脳死を死と認め、生命維持装置を止めて命を終わらせる事は親として人間として後ろ指刺されることかもしれません。
それで一生思い悩むとしてもその苦しみを背負う事こそ愛がなければできないと思い、臓器提供ドナーの家族は苦しみながらも「誰にとってもベターな選択」として責任と勇気を持つことはこれ以上ない覚悟を背負うことです。
私はやはりその選択をする人を支持したいと思うのです。

この本を読んで自分に影響を与えた事は不安や心配のない生活を過ごせている今、自分や大切な家族、友人、知人たちと何気ない生活を共に過ごせている事の幸福をちゃんと受け止め、大切な人たちとの生活に真心を込めて接しようと思えたことです。誰かが突然に消えてしまったとしても、自分の命の限りが見えても思い残す事なく心を尽くしたと後悔しないようにしたいからです。
本来、命とは奇跡と偶然と幸運のおかげで存在しているのでしょう。私は本書を通して全ての有限の命への感謝に気づけて良かったと思いました。

それぞれの親の立場になった時のエゴへの理解の感想文例…文字数2035
参照「感想文ライブラリー」
この世には狂ってでも守らなきゃいけないものがある。そして子どものために狂えるのは母親だけである。これは、6才の愛する我が子が脳死になり、その子のためにできうる限りのことをした母親のセリフである。親はいつだって子どもの幸せを願うものである。それは、子どもが脳死になってもそうである。
脳死は人の死か。もし愛する我が子が脳死になれば、自分は子どもの臓器提供にイエスと言えるだろうか。現在の日本の法律では、脳死になった場合2つの死を選べる。脳死である場合、意識が戻ってくることはない。心臓が止まるまで、延命措置を行い、心臓死を待つか、脳死判定を行い臓器移植に協力するかのどちらかである。自分だったら、子どもの臓器提供に協力するとは言えないのではないかなと思う。子どもの心臓は動いており、寝ているような我が子をみれば、なかなか協力します、とは言えないと思う。

この物語のなかでも、子どもの両親は、迷った末、延命措置をとる。そして、彼らは脳死の我が子に対して、コンピューターを使い自分で呼吸させるのである。さらに、機械を使い筋肉を動かすトレーニングをさせるのである。それに対して、周囲からは避難する意見もある。母親の自己満足ではないかという声もある。けれど彼女は譲らない。子どもにできうる限りのことをしてあげたいという。

しかし、一方でその母親は、臓器移植を望んでいる子どもとその親や支援者にも出会い、意見を聞く。そしてまた、自分が正しいことをしているのか悩む。どちらの両親も、我が子のことを一番に思いながらも、相手のことも思いやっている気持ちが伝わってきた。親であれば、子どもが一番である。けれど、こんな辛い状況で我が子だけでなく、周りのことも思いやれるというのは、すごいことなのではないかと思った。

3年という長い間、子どもにできうる限りをした両親は、最終的に、子どもの脳死判定を受け、臓器提供を行う。それもまた、驚くべき決断であるが、彼らにとっては、悩んで、最善を尽くした結果のことである。子どもが脳死になった場合、考えたこともなければ、考えたくもない。ほとんどの親がそうであると思う。けれど、それは突然やってくる。そして、突然決断を迫られる。親はいつでも子どもの幸せを考える。子どもにとってどうしたが最善のことか、本当に深く考えさせられた本である。

「母親は子供ためなら狂うことができる」私自身も2人の子供の母親であるため、その見出しに興味を持ち、手に取ったこの本。内容は、不慮の事故により脳死状態となった幼い娘をこのまま生かすのか、臓器提供をするのか思い悩む母親の苦悩を描いたものである。
読み進めていくと、切なく苦しい思いになった。もし我が子だったらと思わずにいられないのだ。脳死となれば、子供の未来は無いに等しい。もう魂は身体に宿っていなくて、たくさんの生命維持装置に生かされ、眠りながら死を待つのだ。

客観的に考えれば、臓器提供をすれば、この世のどこかで、子供の心臓が生きていると考えられる。しかし、我が子となれば話は別だ。例え魂がなくとも、髪は伸びるし便をするのだ。身体の何処かしらが機能しているのに《脳死》と。死という字を使うことがひどく非情に思える。我が子の命を親である自分が止めてしまう、そんな辛い選択をしないといけないのか。堂々めぐりの考えは、読み終わったあとでも答えは出なかった。

結局この母親は、娘自身が命を終わらせるまで側にいる覚悟を決め世話をするのだが、そうする事で家族内に溝が出来てしまう。眠ったままの娘を車椅子で連れて歩く事で、息子がいじめに合ってしまうのだ。夫に娘はもう死んでいるのだ。生かすのは親のエゴではないか?と言われ、母親は狂っていく。
とうとう警察を呼び、脳死である娘を今ここで刺した場合、殺人罪になるのか、ならないのかで、娘が今生きているのか死んでいるのかを証明しようとしたのだ。脳死という判定が曖昧である日本では、こういうことが実際起こりうるのではないだろうか?的確な基準が必要なのではないだろうか?と思わず考え込んでしまった。

しかし、今回この作品は脳死してしまった母親側から書かれているため、母親に共感出来るが、もし我が子がドナーを待っている側だったらどうだろう。先ほどまで感じていた共感は消え、この子が提供してくれれば我が子は助かるかもしれないのに、と簡単に間逆の考えになるのだ。
それほど親と言うものは子供のためなら、いかに単純で、いざというときは手段を選ばずにいられるのだろう。それが周りから見れば、どんなに狂っていようが、それが親なのだと痛感した。子供は、時には言うこときかないし、イライラさせられることも多いと思う。しかし、イライラするのも愛情があるからで、無関心ではいられないからなのだ。

いつ、事故や病気で子供の笑顔が奪われるのか分からない。この本を読んで、子供たちとの時間をもっと大切に過ごしていこうと思った。

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