『羅生門』あらすじ・読書感想文の書き方【中学生・高校生~】

『羅生門』は教科書にも載っている芥川龍之介の代表作の一つです。

短編小説ながら、主人公の心の移り変わりが読者にたくさんの事を問いかけてきている作品と言え、読みつくされているだけに感想文や設問などで答えも出しつくされた感はあります。

こちらでは『羅生門』の感想文を書くにあたってヒントなる書き方をご案内いたします。
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『羅生門』オリラジ中田が解説
『羅生門』あらすじ
『羅生門』意味・読書感想文の書き方(着眼)

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『羅生門』オリラジ中田が解説


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『羅生門』あらすじ

 

平安時代。
飢饉や辻風(竜巻)などの天変地異が打ち続き、京の都は衰微していた。
ある暮れ方、荒廃した羅生門の下で若い下人が途方に暮れていた。下人は数日前、仕えていた主人から解雇された。
生活の糧を得る術も無い下人は、いっそこのまま盗賊になろうかと思いつめるが、どうしても「勇気」が出ない。
そんな折、羅生門の2階に人の気配を感じた彼は、興味を覚えて上へ昇ってみた。
すると楼閣の上には身寄りの無い遺体がいくつも捨てられていた。
その中に灯りが灯っていて、なんと老婆が若い女の遺体から髪を引き抜いているのである。
老婆の行為に激しい怒りを燃やした下人は刀を抜き、老婆に襲いかかった。
下人が「なぜ死人の髪を抜いていたのか」問い詰めると
老婆は「抜いた髪でカツラを作って売ろうとしていた」と自身の行いを説明する。
「抜いた髪でカツラを作ることは、悪いことだろう。だが、ここにいる死人はそれくらいのことをされてもいい人間ばかり」
「今髪を抜いた女は蛇を干したものを干し魚と偽って売っていた」
「それは自分が生きるための仕方の無い行いだ。」
「わしはあの女がしていたことも自分のしていたことも悪とは思わぬぞ」
「こうせねば餓死すると仕方がなくてしたことじゃから…髪を抜いたとて、この女は許すであろう」

髪を抜く老婆に正義の心から怒りを燃やしていた下人だったが、老婆の言葉を聞いて勇気が生まれる。
そして老婆を組み伏せて着物をはぎ取るや「己(おれ)もそうしなければ、餓死をする体なのだ。」と言い残し、漆黒の闇の中へ消えていった。

下人の行方は、誰も知らない。
  

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『羅生門』意味・読書感想文の書き方(着眼)

羅生門の感想文(着眼)

・下人は「いっそこのまま盗賊になろうかと思いつめるが、どうしても「勇気」が出ない。」の勇気とはどういうモノか
・下人はなぜ「老婆の行為に激しい怒りを燃やした」のか
・老婆の言う「ここにいる死人はそれくらいのことをされてもいい人間ばかり」の理由はなにか
・「それは自分が生きるための仕方の無い行いだ。」とはどんなことか

人は追い詰められた時、主体的に行動して(悪事を働いて)生きるか、それとも受動的に死ぬか。との選択を迫られるかもしれません。
『羅生門』ではそんな生き抜くために悪事さえしなければならない苦悩や生きるための強い意志、人間の心の変わりやすさを垣間見る事ができます。
もし自分が下人の立場だったら、どんな行動をしたか?また読書感想文では自分がした経験の一つを記し、その経験から何を学んだかを記すことも評価対象になります。

・悪事を働く勇気
通常の平穏無事な世界では、人の道を外れ、盗人などになるのは稀である。
だが飢饉や戦争、災害など異常な世界では、人間の良心など風前の灯のように、儚いものだ。
下人は、ろくな人間ではない者からは何をしてもよいと老婆から知らされる。
ならば自分もろくな人間ではない老婆を襲ってもいいのだとの理屈に行きつき悪事を働く勇気を得て老婆より追いはぎをして逃げていく。『羅生門』は、言わずもがな、エゴイズム肯定への下人の心の動きが上手く表されています。下人に因果応報はあり得るのだろうか?、自分がろくでもない人間に成り下がったことを、いつ知るのだろうか。下人の行方は誰も知らないとのラストがピリリと効いている。                                     

・生存欲求はモラルより重視するものか
老婆から、生きるための「悪」は許されるべきだという理屈を聞きます。極限まで追い詰められた人間のモラルとは?極限の状態では何が善で何が悪なのか?ただ文字を追うだけでもその内容と深く残酷な描写に圧倒されてしまうだろう。その上でこの書が長く読み継がれているのは下人の心変わりの速さが表す本来誰もが持つエゴイズムを表現しているからであろう。この本の世界同様、私たちが生きる現実世界もあらゆるレベルで何が正義か悪か分からないのが現実である。ゆえ話に引き込まれ読後に不気味なものが胸を占めるのであろう。

・なぜ羅生門での出来事なのか
羅生門とは、生きるつながりの門つまり羅生の「羅」は「全てのつながり」との意味が含まれてますから、つまり、胆略的にまとめると老婆がした行為は、下人によってまた老婆に帰ってくる。つまり物事は羅生なのだ。との意味合いが込められていると私自身は考えます。元々は平城京の羅城門から来ているので、ただ、下人の行為が生きるために行うことの肯定だけを意味した作品なら、羅城門、もしくは羅刹門でも意味合いとして成り立ちますが、羅生門としている事から、因果つまり相手に行った行為は最終的には自分につながってくる。との意味合いで生きる繋がり、羅生門と題名をつけたのだと考えました。だた、あくまでも個人的な考えです。

・正義の脆弱さ
下人は老婆の言う「生きるための悪は許される」の言葉でその直前までのモラル、正義感はあっさりとくつがえし「生きる事が正義」となった。下人の新たな正義の為ならば方法を選ばないのが下人の行きついた先なのだ。下人も老婆も平常時に出会ったならば眉をしかめたくなる存在である。だが誰もが彼らを勧善懲悪だと強く言えないのは、それだけ個々の正義感とは状況により揺れ動く脆弱なものだと言えるからだろう。
正義とは都合なのかもしれない。もし利他主義を軸として生きるならば、そうする事が都合が良いからと言える。悪に見える利他主義エゴイズムも、また然りと言える。人間だけが正義と悪のふり幅の大きな行動を取る生き物なのかもしれない。

・悪事に正当性を求めていないか
生きるためにいかなる行動を取るべきか?を自分に問い詰めると胸が締め付けれられる気がする。
下人の行為は自分自身が窮地に立たされた時の姿かもしれないからだ。
最初は猛烈に老婆の悪事に対して、立ち向かう英雄のような下人。ところが老婆の「生きる為」という正当防衛の意を含む言葉が、下人の中の悪を目覚めさせ正当化し、その責任を荒廃した社会のせいにしたのです。ここに人間の心の弱さと愚かさをつくづく感じる。
だが下人を愚かと嘲ることができないのは、悪事をしなければ死ぬという追い詰められた状況は本当に個人の責任なのか?人間の心が弱くなるのは社会の影響も大きいのではないかと思えるのだ。
「生きるためにやった」と言えば許される世の中ではない。なぜならそこに至るまで最大限の努力をしたか?が問われるからだ。
人は聖人君子にはなかなかなれるものではない。だが自分の心の弱さや醜さを正当化し、自己都合を優先させたいがために責任転換する人間にはなりたくない。エゴイズムは弱さから生まれてくるものだ。

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