『蜘蛛の糸』読書感想文の書き方6例【中学生・高校生~】


『蜘蛛の糸』芥川 龍之介の代表作の一つであり、読書感想文の定番本と言えます。

「短編小説だから読むのが簡単」
「読書感想文が苦手だから、毎年蜘蛛の糸で書く」
など最初から惰性で『蜘蛛の糸』で読書感想文を出す人も多いかもしれません。

この作品は短編小説ながら、主人公の心の移り変わりが読者にたくさんの事を問いかけてきている作品です。ですが知り尽くされた内容の小説だと逆に心に感じるものがなく、かえって読書感想文を書くのが大変になるのです。

こちらでは『蜘蛛の糸』の感想文を書くにあたってヒントな書き方
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『蜘蛛の糸』あらすじ
『蜘蛛の糸』読書感想文の書き方6例
おまけ『蜘蛛の糸』と『因果の小車』の違いと意味(解説)

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をご案内いたします。

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『蜘蛛の糸』のあらすじ


 
『蜘蛛の糸』は芥川龍之介が手がけたはじめての児童文学作品です。
この話の材源は、ドイツ生まれのアメリカ作家で宗教研究者のポール・ケーラスが1894年に書いた『カルマ』の鈴木大拙による日本語訳『因果の小車』であることが定説となっています。

以下は「あらすじ」というより、もともと短い作品ですので、どちらかというと「要約」です。

ある日の事でございます。
御釈迦様はある日の朝、極楽を散歩中に蓮池を通して下の地獄を御覧になりました。
罪人どもが苦しんでいる中にカンダタ(?陀多)という男の姿が、御眼に止まりました。
カンダタは殺人や放火もした泥棒であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。
それは林で小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことでした。
「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」
それを思い出した釈迦は、彼を地獄から救い出してやろうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろしなさいました。

暗い地獄で天から垂れて来た蜘蛛の糸を見たカンダタは「この糸を登れば地獄から出られる」と考え、糸につかまって昇り始めた。
ところが途中で疲れてふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。
このままでは重みで糸が切れてしまうと思ったカンダタは、下に向かって「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己おれのものだぞ。お前たちは一体誰に尋きいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚わめきました。
その途端でございます。蜘蛛の糸がカンダタの真上の部分で切れ、カンダタは再び地獄の底に堕ちてしまいました。

 御釈迦様おしゃかさまは極楽の蓮池はすいけのふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。

無慈悲に自分だけ助かろうとし、結局元の地獄へ堕ちてしまったカンダタを浅ましく思召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着とんじゃく致しません。
極楽ももう午ひるに近くなったのでございましょう。

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「蜘蛛の糸」の全文はこちらから読めます。
「蜘蛛の糸」
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『蜘蛛の糸』読書感想文の書き方6例と着眼点

【最重要ページ】感想文を書くにあたっての「コツ」「構成」「話の広げ方」などの詳細は下記のページに掲載しています。

読書感想文の書き方のコツ
(テンプレートつき)

 
上記の「構成」に、以下の「この作品の着眼点」をあてはめて感想文を完成してください。
 

『蜘蛛の糸』の感想文の着眼点
     
    なぜお釈迦様はカンダタに蜘蛛の糸を垂らしたのか?
    カンダタは他の罪人も登ってきているのを見てどうすればよかったのか?
    どうして蜘蛛の糸は切れたのか?
    『蜘蛛の糸』から得られる教訓はなにか

 
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なぜお釈迦様はカンダタに蜘蛛の糸を垂らしたのか?

お釈迦様はなぜカンダタだけに救いの手である蜘蛛の糸を下ろしたのだろう?
地獄にはたくさんの罪人がいたでしょうが、カンダタ意外にも人生で1度くらい良い事をした人間はたくさんいたのではないだろうか?
そうなるとたまたまカンダタだっただけで、人間の善悪は救いの手を差し伸べた時にどのように反応するのか?気まぐれに人の心を試してみたかったのではないかと思えるのだ。
最初はカンダタの自業自得と同情心など感じなかったのですが『蜘蛛の糸』は何度も読むたびに受ける印象や感想が変わってくるのだ。それは自分がカンダタの立場だったら、他の罪人たちに「下りろ」と叫んでいたと思うからだ。少なくとも罪人ではない自分もその時になったらカンダタとそう変わらないんじゃないか?と思えるのだ。
 人はどんな時も自分を一番に考えてしまうものではないだろうか?例えば「恐怖で足がすくむ」という表現があるがそれですら自己保身という自分の利益を一番に考えるからそうなるのだと思え、どうしてもそんな感情が出てしまう状況で蜘蛛の糸を下ろされたカンダタに今は少し同情してしまうのだ。
芥川龍之介は人がなかなか手放せない利己主義を持つ人間の哀れを言っているのかもしれない。利己主義を手放し打ち勝つ方法を見つけるのは人間にとっての大きなテーマの一つかもしれない。

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カンダタは他の罪人も登ってきているのを見てどうすればよかったのか?

『蜘蛛の糸』を読むと自分の中に強迫観念が沸き起こります。悪いことをすると地獄に行くぞ、独占しようとすると地獄に落ちるぞ、人にも分け与えなと地獄に落ちるぞ…。もちろん人殺しや放火などカンダタのような悪事はしませんが、自己中心的であったり、他人の事を考えないところは自分にもたくさんあるので、読むと少し恐ろしいような、気まずさを感じるのです。
 今までの自分の生き方を考えると、自分は地獄行きか?天国に行けるか?わかりません。すごく悪いことはしていないつもりだけど、それはあくまで自己評価です。
自分では気が付いていないだけで、本当は他人に嫌がられている行動をとっていないだろうか?変だとか常識外れだと思われていないか?性格が悪いとか意地悪だとか思われていないだろうか?
地獄は、暗くて寒くて、冷たくて、そこでは苦しさと後悔だけの感情を抱きながら過ごすと聞きます。ならば自分のこれまでの生き方に後ろめたさを感じている現世での今も心の中は地獄と変わらないのではないだろうか?
もちろん悪事はしないし、なるべく意地の悪い、利己的な自分にならないように気を付けようと思う。だけど極楽が地獄とは真逆の明るくて暖かくて楽しく幸せな場所ならば、現世の自分も極楽に置くように自分も他人もどうしたら幸せでいられるか?前向きに考えたいと思う。それが利己主義からの脱却ではないだろうか?

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カンダタは他の罪人も登ってきているのを見てどうすればよかったのか?

「蜘蛛の糸」は人間の自己中心性・我執の救われがたさとその自覚がテーマなのだと思う。
カンダタは自分の目の前に蜘蛛の糸が下りてきたのは、偶然のラッキーとしか感じていないと思われます。生前に蜘蛛を助けたことへの報いだと知っていたら「あの時の蜘蛛か!」と、良い行いへの報いに感謝する気持が沸き起こったはずで、本当に改心してお釈迦様の慈悲に心から感謝するか、本当に卑しい人間ならば「あの時の功徳が功を奏した、しめしめ」と思うかもしれない。でもどちらの感情を抱いてもお釈迦様の思し召しだと知っていたら本来もっと心に余裕が持てたのではないだろうか?とも思いました。
この細くなんとも頼りない蜘蛛の糸。いつ切れるかわからない命づなに対して、心の奥底に強烈な「あせり、おそれ・おびえ」は感じてしまったと思うのです。では、どうすれば良かったのでしょう?この糸は、お釈迦様の垂らした特別な糸であり、絶対に切れる事はないと、確信を持って登り続ければ良かったのです。
何も言わずに蜘蛛の糸を目の前に下ろすお釈迦様はカンダタを試したかったのでしょうか?他の下人まで登ってくることをお釈迦様は最初から分かっていたのか?偶然なのかはわかりません。ですがどんな状況であれカンダタが蜘蛛の糸が下りてきた事を特別な事と信じる心があれば、他人を蹴落としたい利己的な心も沸かず極楽まで登り切れることができたのかもしれません。
お釈迦様の慈悲も人間の「エゴ」の前では無力であると、確認し悲しそうにその場を離れたのかもしれません。悲しい人間の性の中でも少なからず善が存在する。すぐに光明は見えないとしてもただまっすぐにその道を信じれば「あせり・おそれ・おびえ」から解放されて糸は細くても最後まで切れなかったかもしれない。
悪人ではない普通の人間も、それぞれが望む極楽へ進める蜘蛛の糸に出会いたいと思いました。

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どうして蜘蛛の糸は切れたのか?

現代、蜘蛛の糸は鉄鋼の4倍の強度「究極の繊維」と言われている。
実際の蜘蛛の糸は、蜘蛛が獲物を捕らえたり、巣を作ったりなど生きていくために必要な生命線が蜘蛛の糸である。芥川龍之介は、この蜘蛛の糸で人間のどんな心を表そうとしたのだろうか?
 大悪党の主人公カンダタが生前に行った良い事は一匹のクモを助けた事のみだから、普通ならあきれ果てる。だがクモを助けたときのカンダタは確かにその小さな命の重さを尊重できたのだから、真の悪人ではないのかもしれない。
 カンダタの目の前にお釈迦様が蜘蛛の糸を下ろしたのは、単に慈悲の気持ちだけじゃなく、地獄の血の池の中で今、人の心を忘れているカンダタに、クモを助けた時の気持ちや命の重さを思い出させようとしたかったのではないだろうか?
 人間も動物もみな等しく命の重さがあるものだ。だけど自分は犬や猫などの殺処分には心を痛めても、牛や豚や魚など動物の肉を平気で食べている。害虫と呼ばれるゴキブリや蚊が存在することすら許せないし、何の痛みも感じずに小さな虫は殺したりもしている。そんな自分はカンダタとどう違うのだろう?お釈迦様にはさほど違いはないように思うのではないだろうか?
 カンダタは目の前に下ろされた蜘蛛の糸をどんな思いでつかんだのかわかる気がする。「自分だけが助かろうと欲をかいたから切れたのだ」と厳しくカンダタを見る人もいるが、死に物狂いの瀬戸際ですがりついた蜘蛛の糸だ、余裕などなかなか持てないのではないだろうか?
本来なら強いはずの蜘蛛の糸はカンダタの心の強さに比例するかのように切れてしまった。もし自分がカンダタの立場だったら、正しい道を選べるかどうかは自信がない。
お釈迦様がカンダタの試練を与えたのだとしても、ずいぶんむごいことをすると思った。希望を持たせて突き落とし、そこから二度と這い上がれずに苦しむそこに芥川龍之介は何を言いたかったのか、もっと考えてみたいと思った。

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『蜘蛛の糸』から得られる教訓はなにか

蜘蛛の糸は本当に登りきれる糸なのだろうか?この糸は永遠に人間は登る事ができないのではないかと思うのです。
カンダタは蜘蛛の糸に他の下人がぶら下がるのを見て「下りろ下りろ」と本音が出てしまいます。それが正直な人間の本性だからです。でもその一言、利己的な心が蜘蛛の糸を切ったのだと思うのです。
でもそれが人間なのだと思うのです。まずは自分優先で、卑しくて、ズルい自分を守ろうとする、それが人間だと思うのです。
お釈迦様はそんな人間が元々持っている卑しい性質も十分わかっていると思うのです。そのうえで、少しでいいから他人の事を考えろと言いたいのではないだろうか?
他人と共に幸せになることで人間は極楽を感じるのではないだろうか?
芥川龍之介は利己主義・エゴイズムについて人間持っている本性として描いたのかもしれないが、そこには幸せはない利他主義をやり続ける事に幸福を見出せると伝えたかったのかもしれない。

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『蜘蛛の糸』から得られる教訓はなにか

蓮の花は仏教ともかかわりの深い花として知られています。沼地の泥の中に咲くにもかかわらず可憐であることなどから、清廉さの象徴的な植物でもあります。
極楽にはこの蓮の花が咲き乱れているのだろうなと想像できます。
なぜならば小さいころから「良いことをすると天国に行けて、悪いことをすると地獄に落ちる」とだいたいみんなも聞かされて育つからです。
そうなると良い事は誰かの為を思ってするとか、悪い事はしてはいけないからしないとかではなく、単に地獄に行きたくないから悪いことはしないという条件反射で善悪の概念を持っていたような気がします。それでもカンダタに比べたらまだマシなのかもしれません。
お釈迦様は大泥棒のカンダタに情をかけて、蜘蛛の糸を下ろしたのですが、カンダタには心の余裕はありませんでした。とにかく地獄から抜け出したい、人の事なんて考えられないから「下りろ下りろ」と叫んでしまい、蜘蛛の糸は切れてしまいます。
でもこのカンダタの気持はよくわかります。心にゆとりがない時は、周りの事は見えなくなります。自分が一番大事で、回りに思いやりを持つのは難しくなると思います。
蜘蛛の糸が切れた時、カンダタはどんな気持ちだったのでしょうか。悔しさや無念、やりきれない思いそして「やっぱりそんなに都合よくいかないか」と自分の立場を再確認したのでしょうか?もしかしたらカンダタはこの出来事で初めて生前の悪い行いを悔いるような気がします。
ただ、自分がもしカンダタだったら?と考えると、人間は常日頃善悪どちらの判断をするべきか試されることが多いと思うので決してカンダタを笑うことができないということと、心が迷う時は、蓮の花のように泥の中にいても清廉な気持ちを忘れないでいたいと思います。

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『蜘蛛の糸』から得られる教訓はなにか

「若気の至り」という言葉があります。若い時の悪さや失敗を柔らかいニュアンスでごまかした言い方だと自分は受け止めています。なぜならば罪の意識があっての「若気の至り」は笑って許されるものばかりではなく、贖罪をもって悔い改める必要があるからです。
ただ人にはやり直す更生のチャンスも必要です。チャンスを生かすことが出来るかの見極めがカンダタに「蜘蛛のような小さな命の尊厳をも尊重できる心があった」事です。あの時カンダタはたしかに慈悲の心を持ち合わせていた。だが地獄では自分が助かる事のみで蜘蛛にかけたような他者の命への尊重は皆無でした。
人は常日頃、善を働けば救いの手は差し伸べられる好機に恵まれる事も多いのでしょう。
だが元悪人など全科がある人間に対して、見る目は厳しいとしてもやはり善行を積むことで救いの手は差し延べられるのかもしれない。だが悪に一度身を落とした者は自分への甘さがあるのは確かなのだ。
人生の幸福に安易な近道はなく、地道にコツコツと長く積み上げていく信頼や筋道こそが、己を作り、他者からも信用を得られる唯一の方法なのだろう。
蜘蛛の糸を登り始めたとき、迷うことなく極楽を目指すことがやり直しのチャンスだったのだろう。生きなおすということは一長一短にできるものではなく、積み重ねでしか作り上げられないものだと思う。
 

おまけ『蜘蛛の糸』と『因果の小車』の違いと意味(解説)

『因果の小車』と『蜘蛛の糸』では「冒頭と末尾での釈迦如来の行動に矛盾が生じた」という見方があり、蜘蛛の糸はより日本的な仏教感を想定されていると言われています。
 

『因果の小車』のあらすじ

悪事を働いていた盗賊マハードータが仲間の裏切りにあって瀕死の重傷を負った。手当てをしてくれた僧に「解脱の道を聞くことができないのだろうか?」と尋ねたところその僧はカンダタの話を聞かせた。

≪蜘蛛の糸のカンダタの話≫
ここでは仏の光明は奈落の底までも届いた時にカンダタが「私を憐み救ってください。」と願い、如来はカンダタの一生の行いをサーチし蜘蛛の糸を「 この糸を頼って昇り来れ」と伝えよと命じる。

ところが、カンダタは糸が揺れ数限りない罪人達がぶら下がって登ってきているのを見て「 去れ去れ。この糸は私のものだ。」と絶叫した瞬間に糸は切れ、其の身はまた元の奈落の底に落ちてしまった。

僧は盗賊マハードータに・・
カンダタの胸中に〈我執の妄念〉に囚われてた。一心に上を目指して登り続けるという正道の本地に到る〈信心の一念〉であるこの糸に一心に上を目指して登り続け解脱の道に至る。その衆生の数が多ければ多いほどこの道は正しい道(正道)なのだ。
地獄とは我執の別の名であり、涅槃は正道の生涯に外ならない。
盗賊マハードータは「 私に蜘蛛の糸を取らせてくれたら、一心に糸を登るだろう。」
と決意し、盗んだ財宝のありかを教えて死ぬ。
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『蜘蛛の糸』と『因果の小車』の大きな違いとは・・・

蜘蛛の糸

・お釈迦様がカンダタに予告もなしに、蜘蛛の糸を垂らして勝手に上る事を示唆
・カンダタは蜘蛛の糸がなぜ自分の前に降りて来たのか自覚をしない
・糸が切れて落ちたカンダタの愚かさのワケを誰も語らない

物語の前後の下りに差はあるもののカンダタは『蜘蛛の糸』と『因果の小車』で自分の功徳のおかげで糸が下りてきた、その事を知る・知らないという差があります。ですがカンダタの人間性のためか?我執の強さで結局糸は切れてしまいます。

『因果の小車』では地獄とは「我執」の別の名で、涅槃とは「正道」を進む事であるのに解脱の道を、カンダタ自らの念で断ち切ったという印象を感じ取れます。

「蜘蛛の糸」は地獄から極楽へ抜け出る道具ではなく「信心の道」であった。カンダタが再び地獄に落ちたのは、その一本の糸を信じられなかったからであり、それは「我執の念」への囚われこそが自らの世界を地獄にすることを説いていると読み取れます。

『蜘蛛の糸』の方が前後の下りがない分、説経臭さがなく読者それぞれの判断で読書感想文は書けますが、カンダタの自己中心的な考えによる失敗を深読みするなら『因果の小車』の方が親切と言えそうです。
  

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