『太陽と月の大地』読書感想文の書き方【例文2作】

今回は、2018年「青少年読書感想文全国コンクール」中学生用の課題図書『太陽と月の大地』の「あらすじ」や読書感想文を書く際の「着眼点の例」「感想文の書き方の例文2作」をご紹介いたします。


太陽と月の大地 (福音館書店)
著者:コンチャ・ロペス=ナルバエス・著 宇野和美・訳 松本里美・画
184ページ
本体価格:1,600円
ISBN978-4-8340-8162-6

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~~目次~~~~~~~~~~~~~~~~
『太陽と月の大地』あらすじ&着眼点の例
『太陽と月の大地』読書感想文【例文2作】

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『太陽と月の大地』のあらすじ&着眼点の例

舞台は、16世紀グラナダ(スペイン南部)で、この地図で分かるように、アフリカ大陸がすぐ下にある場所・・

16世紀スペイン。キリスト教徒の伯爵令嬢マリアと、伯爵家に長年仕え友情を育んできたイスラム教徒の家に生まれた少年エルナンド。ふたりの間には恋が芽生えるが、やがて両家の人々は異なる宗教・民族間の対立に巻き込まれていく。悲惨な戦争の果てに、エルナンドは故郷を追われていく……。宗教や民族の違いによって引き裂かれ、運命に翻弄される人々を描いた歴史小説。

 
・・このうよに書籍の紹介欄には書かれてますが、なにぶん日本人には縁遠い場所での話。さらに宗教的文化の違いもあり、イメージしにくい作品です。

また、登場人物の名前も読みにくい点も、読書を難しくしています。さらに、カットしてもストーリーが分かりそうな「ちょい役」の登場人物がやたら出て来るのも、イメージを複雑にします。(><)
 

難解な本は「箇条書き」で要点を整理しよう!

ということで・・

ポイントの箇条書き・・

グラナダの地にずっと暮らしてきたモリスコ(キリスト教に改宗させられた元イスラム教徒)の家族と、その地をおさめるキリスト教徒の伯爵家。この両家が悲惨な争いに翻弄されていく様を、モリコスの若者エルナンドと伯爵の娘マリアの悲恋を中心に描いている。

二つの家族は、領主・領民の立場の違いがあるものの友好関係で結ばれていた。特に祖父ディエゴが少年のころは、互いの宗教と風習を尊重し合っていた。作中では、老いたディエゴが「伯爵家ゴンサロ少年と過ごした無邪気な時間」のことを切なく思い出すのが印象的。シエラネバダの山に登ってアフリカの海岸を二人並んで見る子供のころの場面・・・。立場が反対の二人ではあるが、唯一無二の友としてそこに立っているのだ。そこでは二人はたがいに、宗教、人種、身分の関係ない、ひとりの人間と人間として向き合っている。

エルナンドとマリアも、そうしたわけ隔てのない幼馴染だったが、年頃になり、互いに恋心を抱くようになる。伯爵の娘マリアは素直な気持ちをままでいられたが、モリスコとして苦渋を味わうエルナンドは、キリスト教徒たちに支配された恨みや悲しみに打ちひしがれてしまう。

イスラム教とキリスト教が対立する時代ながら、それぞれの側で、人々の気持ちはさまざまであり同じではない。異教徒を徹底的に排除したいと考える者もいれば、宗教にかかわりのなく人間として相手を見るものもいる。人それぞれ考え方は違うのだ。

1567年1月。イスラム教の習慣をすべて禁じるおふれが出されます。絶望にくれるエルナンドの家族。領地を治める貴族たちも、反乱の危険を感じておふれを取り下げるように努力しますがかないません。1567年12月。ついにモリスコ達は立ち上がります。

エルナンドの兄ミゲルは、キリスト教徒と傷害事件を起こして逃げ、反乱軍に参加しながらも、罪のないキリスト教徒たちを逃そうとする。エルナンドのように、反乱に参加しないイスラム教徒もいる。

反乱軍の家族という扱いになったエルナンドとフランシスコは何とか逃げのびていましたが、キリスト教軍の兵士に見つかり、つかまってしまいます。そして、奴隷としてせり落とされることになりました。広場で始まったせりで、2人をせり落としたのは、アルベーニャ伯爵でした。せり落としたのは好意によるもので、アルベーニャ伯爵は二人と以前と同じようにしようとします。しかし奴隷の身分となった二人は、自尊心を持てず、かつてと同じようには伯爵たちと接することはできません。伯爵はエルナンド達に自由を証明する書類と通行許可証を渡し、二人を自由にします。

エルナンド達はアフリカに旅立ちました。苦難の生活ののち、アルジェで何とか成功したことを、エルナンドはマリアに手紙で伝えます。そしていつか、自分の子孫とマリアの子孫が「平和ごっこ」をすることを夢見ています。

タイトルの「太陽と月」は「キリスト教徒とイスラム教徒」を意味している。「キリスト教徒とイスラム教徒の争いの大地」とでも訳せるでしょう。あなたがタイトルをつけるとすればどんなタイトルにするか?サブタイトルを付けるとすれば?
 

着眼点の例
     
    人間にとっての宗教とは、宗教の役割は?あなたの考え方は?
    現在世界のあちこちで同じことが起きているのはなぜ?
    日本人の宗教観と西洋の宗教観の違いは?
    宗教の役割や宗教に期待することは?
    人間はなぜ宗教戦争をする?
    身分や階級に対してどう考えるか?
    人間を奴隷として売買することに抵抗がなかったのはなぜ?
    もし自分が奴隷として競りに掛けられたら?
    宗教はなぜ対立する?おなじ宗派でも分裂するのはなぜ?
    このような歴史から何を学ぶ?これからの時代にどう生かす?

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『太陽と月の大地』読書感想文【例文2作】

用紙・字数のルール その他の詳細
原稿用紙を使用し、縦書きで自筆してください。原稿用紙の大きさ、字詰に規定はありません。
文字数については下記のとおりです。
中学校の部 本文2,000字以内
※句読点はそれぞれ1字に数えます。改行のための空白か所は字数として数えます。
※題名、学校名、氏名は字数に数えません。

 
読書感想文の「構成」「話の広げ方」「表現方法」などは下記のページに書かれています。

【最重要ページ】読書感想文で「高得点」を得るためのポイントはこちらのページに書かれています!ダウンロードできる「そのまま使えるテンプレート」「構成のサンプル」もありますので是非活用してください。

読書感想文の書き方のコツ図解
(テンプレート付き)

 

『太陽と月の大地』を読んで①

この本は、私に二つの問いかけを与えてくれた。一つは「戦争を望む人間はいない。しかし太古の昔から今日にいたるまで戦争がなくならなのはなぜか」という問いであり、もう一つは「なぜ昔の人類は奴隷制度を受け入れたのか」というものである。

物語は、16世紀のスペインを舞台に、キリスト教徒の伯爵令嬢マリアと、伯爵家に長年仕え友情を育んできたイスラム教徒の家に生まれた少年エルナンドが、宗教や民族間の対立に巻き込まれ、引き裂かれていくというものであった。キリスト教はユダヤ教から派生した宗教であり、イスラム教もまたユダヤ教から派生したいわば兄弟といってもよい宗教である。にもかかわらず、現代にいたるまで、世界中で紛争が絶えない状態だ。

タイトルの「太陽と月」はキリスト教徒とイスラム教徒を意味している。「キリスト教徒とイスラム教徒の争いの大地」とでも訳せるないようであるが、人間はなぜ、科学の発達した今日に至るまで、宗教上の対立を繰り返すのであろうか。おそらくそれは「感情としては戦争はなくしたい。しかし、人類の遺伝情報の中に戦争を必要なものとしてプログラムされている」というのが私なりの解答である。

戦争を望むものはいないが、戦争はなくなってはいないという現実をまず受け入れることから始めなければ、客観的な解決策にはいたらないと思うからだ。戦争が本当に不要なものであるなら、とうの昔に戦争という行動を選択しないよう、先天的なデータとして遺伝子の中に戦争を避ける遺伝子が組み込まれているはずである。とはいっても私は戦争を肯定しているわけではない。おそらく自然は戦争によってもたらされる「何か」を「平和」以上に重要と考えているから戦争はなくならないのだと思うのだ。

その、自然が人類に対し「平和以上に重きをおいているもの」は何かといえば、人類史を鳥瞰すれば、おそらくそれは「競争」させることだと考える。戦争はいやおうなしに生存競争を生む。また戦争は恐怖を生む。その恐怖を避けるために勝利しようとする。

生物学の言葉に「生物は勝とうとしているのではない、ただ生存しようとするだけだ」というものがある。しかし、人間の場合「対立構造」を敢えて作り出し、競争をさせるよう遺伝子にプログラムされているように思えてならないのだ。おそらく、人類は他の動物と異なり「生存せよ」との命題のほか「対立構造を作り競争せよ」との命題が遺伝子にプログラムされているのではないかと思うのだ。そこが動物と人間を分ける「残酷な真実」であり、倫理的には「不都合な真実」ではなかろうか。

例えば、同じキリスト教でも、カトリックとプロテスタントに別れ大きな戦争につながった歴史もいたるところにある。これはユダヤ教からキリスト教やイスラム教が派生し戦争をしていることと何らかわらないではないか。つまり、宗教戦争が起こり、例え一方の宗教に統一されたとしても、そこにまた「新たな宗派」ができ、戦争を繰り返すというのが歴史上のパターンだと思えるのである。このような「対立構造」を自ら作り出し競争させる本能が人間と動物を分ける「違い」なのだと思うのだ。

また、エルナンドとフランシスコが、キリスト教軍の兵士に見つかり、奴隷としてせり落とされた後のエルナンドの姿もとても印象に残った。彼らを競り落としたのは、エルナンドの家の主人であるアルベーニャ伯爵でしたが、それは誰かに競り落とされる前に助けようとする伯爵の好意だったのだが、形としては「奴隷」の身分となった二人であるため、自尊心を持てず、かつてと同じようには伯爵と接することは出来なくなったという場面だ。この部分を読んだ時、私の頭には「なぜ昔の人類は奴隷制度を受け入れたのか」という問いが浮かんだ。

今の日本において、自分が奴隷として競り落とされるということはありえない。あったとすれば大変な人権問題である。しかし、世界では今でも階級制度が明確な国さえある。おそらく、現代の日本人からすれば、身分制度や奴隷制度を受け入れることは不思議に思えるはずだ。誰でも、またいつの時代も本来的には、エルナンドが奴隷にされた時の感情と同じように承服できないことのはずだが、社会全体での「認識」や「方向付け」、「幼いころからの刷り込み」によって、身分制度の存在を「あたりまえ」と思う心理が形成された場合、肯定してしまうのであろう。そうであるなら、そのような悲惨な社会を作らないためには、幼いころからの「教育」こそが重要だと分かる。

物語の設定が16世紀のスペインということで日本人の私には、全体像をイメージするには時間がかかる作品ではあったが、この本を通じて「人間と動物を分ける違い」の一つに「自ら対立構造をつくり争う点」があるのではないかという仮説を思いついた点は大きな発見だった。(1969文字)

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『太陽と月の大地』を読んで②
 
私はこの本を読むのに、まるまる二日かかった。読んだというより「格闘した」といった方がいいくらいに今の私には難解な本でした。しかし、読書感想文の課題図書でなかったなら、この本にはであえなかっただろうと読了後の今は感謝しています。

物語の中では、キリスト教に改宗させられたイスラム教徒が、徐々に風習などを制限され抑圧されていく様子や、反乱を犯した元イスラム教徒の家族として、主人公のエルナンドが奴隷として競りに掛けられる様子が印象的でした。

この本を読んで、私は「人類の歴史は確実に良い方に進んでいる」と思えたこと、また「歴史を語り継ぐことの重要性」「日本人の宗教に対する寛大さ」の三つを特に意識できるようになりました。

おそらく著者は本書を通じ、戦争の悲惨さや、人を人と思わず奴隷にしてきたような事実を伝え残すことで、これからの人類が向かうべき方向性や、油断するとそのような歴史を繰り返してしまうことを意識させようとしたのでしょう。

事実、この本を読むことに費やした二日間は、頭の中で戦争の場面が流れ続けていました。その際の「空想体験」は現実のものではないにしろ、今の日本で暮らしている自分がいかに恵まれているかや、戦争を「やばいもの」として方向付けることに役立にたったと信じます。

確かにこの作品は、作者が当時の時代背景をヒントに書き上げたフィクションかもしれません。ただ平和ボケしていると揶揄される日本人の私には、真実を淡々と語られるより、物語として語られた方が心に強く刺ると思いました。

ノーベル生理学賞を受賞したアレキシス・カレル博士の指摘に「想像が微細にわたった場合、神経系統的な働きは現実のものと変わらない」というものがありますが、つまり、読書のような疑似体験であっても、感情変化を伴うほどリアルな想像ができているなら、それには「意味がある」ということです。

この作品を読んでいる際、つくづく思わされたことは、キリスト教やイスラム教となどの一神教の宗教観と、我々日本人の抱く宗教観とは、かなり違うのではないかということでした。というのは、日本人の私には、どうも宗教上の対立で戦争になるという流れがよく理解できなかったからです。

日本はもともと「八百万の神々」が存在するという多神教の世界観が根底にあるためか、たとえ一神教の神様がほかの国から来たとしても「八百万の神々に一人加わっただけ」といった一種の「寛大さ」で受け入れてしまいます。そのため、大きな宗教戦争というものがなかったのだと思います。

また、キリスト教やイスラム教のように「聖典」のある宗教は、聖典を「心のよりどころ」にできる利点がありますが、悪い方に利用された場合、本書に出てくるような奴隷支配や階級制度を「正当化する」といった根拠に利用されてしまうものでもあります。

私は子供のころ、神社の神主さんから「神道には教典や具体的な教えはなく開祖もいない」と聞き驚かされたものです。考えてみれば、日本の神社ではお守りは配っていても、聖書のような聖典は本来的には配っていないのです。そればかりか、神社の境内の奥には「鏡」がポツンと置かれていますが、神主さんから「カガミに映るものから『我』を抜くと何になる」という問いかけをされ、ハッとさせられました。つまり「カガミ」に映るものから「我」を抜くと「カミ」になるからです。日本人にとっての神は「我欲を抜いた人間」そのものだということであり、人間もまたそのような心境のもとでは神と同等の存在になれるということでもあります。

日本人にとっての神は、キリスト教やイスラム教の神のような「依存の対象」ではなく「畏敬の対象」です。自然災害の多い日本においては、人間の勝手な理由付けなどまったく無視した厳しい現実にさらされます。そのような環境の中で適合したのが、畏敬の対象としての神のもとで「自らの責任で行動する」といった姿勢だったのでしょう。責任転嫁のごとく都合よく「責任転神」せず、自分の良心に従う判断基準であれば、多くの非人道的な振る舞いはなくなるのではないでしょうか。

本書は、スペインで1980年代に書かれ、30年以上読み継がれてきた名作だといいますが、読み手にさまざまなヒントを与えてくれる要素が散りばめられていることがその所以なのでしょう。日本人の私にとっては、登場人物の名前や、地理的なイメージが描きにくいというマイナス点はありましたが、著者の伝えようとしたメッセージは十分に伝わったと思います。そればかりか、日本人の私には、縁遠いキリスト教やイスラム教の宗教感覚と、日本人の宗教感覚を対比できた点は、著者すら意識していなかった読書の効用だったはずです。

これまで歴史関係の本は読んだことがなかった私ですが、これからは歴史書も読んでみようと感じさせた、まさに記念碑的な一冊でした。(1985文字)
 

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