「風立ちぬ」読書感想文の書き方【例文3作】

今回は、堀辰雄の名作『風立ちぬ』です。


簡単に内容を紹介すれば「ヒロイン病死型 恋愛小説」の日本における「元祖」にして名作。また、短編(約100ページ)ゆえに、中学生高校生が、1200字、1600字、2000字(原稿用紙3枚、4枚、5枚)ぐらいの読書感想文を書く際に「手ごろな分量の本」として古くから読み継がれてきている作品です。

名作ゆえ、映画化2度、宮崎駿のアニメをカウントすれば3度、映画化されている本作ですが、原作では、主人公と恋人「節子」との静かな時間が中心に描かれています。二人の心の描写をあじわう作品であり、物語の中ではヒロインの死以外、事件らしい事件はありません。そのため映画化にあたっては、かなり脚色がほどこされております。

歌手の松田聖子さんのヒットソングに、同じタイトルの曲がありました。聖子さんの曲も、この作品を元にしたものであり、どちらかというと、映画より聖子さんの曲の歌詞の方が、堀辰雄の伝えたいイメージに近いものといえます。

♬「高原のテラスで、春、夏の日々を思い出し、今は秋。あなたのことを忘れたいけど忘れられない・・。私は心の旅人になる・・」♬ このような内容の歌詞でした。(ただし、男女が逆の設定ですね)

作中の婚約者「節子」のモデルは、堀と1934年(昭和9年)9月に婚約し、1935年(昭和10年)12月に死去した矢野綾子です。

著者のこの辛い実体験がベースにあるためか、直接的には病気、結核、死などに関する描写を使わずに死に向き合う人間の心の動きを表しているのが、この小説のすごいところです。その点が、日本文学らしい作風にしているのです。(感想文にはこの直接的な表現を使われていない点を指摘するのもよいでしょう)

そればかりか、妻節子の結核がひどくなり、発作がでる描写も限りなく少なく、さらには亡くなる際の記載にいたっては一切ありません。死を、近い未来の確定事実として捉え、それに至るまでの感覚的とでもいえる描写を「間接的な表現」で見事に書き表しているのです!

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ラジオドラマ「風立ちぬ」

「風立ちぬ」あらすじと読書感想文の書き方の例



ネット上の青空文庫で全文が読めます。
堀辰雄「風立ちぬ」横書き全文

序曲
秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、2人で休んでいた。そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。


約2年後の3月、私は婚約したばかりの節子の家を訪ねた。節子の結核は重くなっている。彼女の父親が私に、彼女をF(富士見高原)のサナトリウム(長期的な療養を必要とする人のための療養所)へ転地療養する相談をし、その院長と知り合いで同じ病を持つ私が付き添って行くことになった。4月のある日の午後、2人で散歩中、節子は、「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言い、それから小声で「あなたのお蔭で……」と言い足した。私と節子がはじめて出会った夏はもう2年前で、あのころ私がなんということもなしに口ずさんでいた「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が再び、私たちに蘇ってきたほどの切なく愉しい日々であった。
上京した院長の診断でサナトリウムでの療養は1、2年間という長い見通しとなった。節子の病状があまりよくないことを私は院長から告げられた。4月下旬、私と節子はF高原への汽車に乗った。

風立ちぬ
節子は2階の病室に入院。私は付添人用の側室に泊まり共同生活をすることになった。院長から節子のレントゲンを見せられ、病院中でも2番目くらいに重症だと言われた。ある夕暮れ、私は病室の窓から素晴らしい景色を見ていて節子に問われた言葉から、風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。9月、病院中一番重症の17号室の患者が死に、引き続いて1週間後に、神経衰弱だった患者が裏の林の栗の木で縊死した。17号室の患者の次は節子かと恐怖と不安を感じていた私は、何も順番が決まっているわけでもないと、ほっとしたりした。
節子の父親が見舞いに2泊した後、彼女は無理に元気にふるまった疲れからか病態が重くなり危機があったが、何とか峠が去り回復した。私は節子に彼女のことを小説に書こうと思っていることを告げた。「おれ達がこうしてお互いに与え合っている幸福、…皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、おれ達だけのものを形に置き換えたい」という私に、節子も同意してくれた。


1935年の10月ごろから私は午後、サナトリウムから少し離れたところで物語の構想を考え、夕暮れに節子の病室に戻る生活となった。その物語の夢想はもう結末が決まっているようで恐怖と羞恥に私は襲われた。2人のこのサナトリウムの生活が自分だけの気まぐれや満足のような思いがあり、節子に問うてみたりした。彼女は、「こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と言い、家に帰りたいと思ったこともなく、私との2人の時間に満足していると答えてくれた。感動でいっぱいになった私は節子との貴重な日々を日記に綴った。私の帰りを病院の裏の林で節子は待っていてくれることもあった。やがて冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で言った。

死のかげの谷
1936年12月1日、3年ぶりにお前(節子)と出会ったK村(軽井沢町)に私は来た。そして雪が降る山小屋で去年のお前のことを追想する。ある教会へ行った後、前から注文しておいたリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」がやっと届いた。私が今こんなふうに生きていられるのも、お前の無償の愛に支えられ助けられているのだと私は気づいた。私はベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。風のため枯れきった木の枝と枝が触れ合っている。私の足もとでも風の余りらしいものが、2、3つの落葉を他の落葉の上にさらさら音を立てながら移している。(Wikipediaより)


「風立ちぬ、いざ生きめやも」は誤訳?

作中にある「風立ちぬ、いざ生きめやも」という有名な詩句は、「風が吹いた、さあ生きよう!」という意味で使われている。たしかに美しい響きの言葉であり、印象深い句なのだが、誤訳であることでもよく知られている。

「風立ちぬ」の巻頭には、ヴァレリーの詩の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」が引かれていることから、「風立ちぬ、いざ生きめやも」はそれの翻訳であることが分かる。

原詩のほうは、一般的によく使われるフランス語の言いまわしで、英語に訳すと「The wind is rising, you should try to live」となろう。後ろの句の主語は本来はweなんだろうけど、この句は自分に言い聞かすような言葉なので、youのほうがいいとは思う。それで和訳すると「風が起きた、生きることを試みねばならない」の意味となる。要するに、吹いた風を契機に、著者の「生きるぞ!」との決意を現わしているのである。

問題は、日本語訳の方で、堀辰雄はここの部分を、「いざ、生きめやも」と訳したわけですが、「生きめやも」は「生き+む(推量の助動詞)+やも(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)であり、現代語になおすと「生きるのかなあ。いや、生きないよなあ」となってしまいます。

端的に訳せば「死んでもいいよなあ」であり、つまりは生きることへの諦めの表現となってしまう。それゆえ、当時、堀辰雄は東大国文科卒のわりには古文の教養がないとバカにされてしまっていた・・・

ま、堀辰雄の伝えたかった内容を推測すれば、このフレーズは、過去から吹いてきた風が今ここに到達したという時間的・空間的広がりを表し、生きようとする覚悟と不安が生まれた瞬間をとらえたものと解釈されています。

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「風立ちぬ」読書感想文の書き方の例①

「風立ちぬ」を読んで

私は、今まで、白んでいく窓あかりに一日の活力を感じたり、澄み切った青空に希望を描いたりしていたが、太陽が燃えながら沈んでいくことの意味や、落日のあとの色あせていく空の裏に何が隠されているのか、考えてもみなかった。しかし、この本を読んでから、夕日の沈む様子を意味のあるものとして眺めるようになった。

からだを震わせながら燃えつきていく太陽、それは懸命に生きつづけた太陽の魂の証である。ばら色の残照が黒いもやにかき消されて、やがて闇の静寂になる。この静けさの中で、赤い生命はまだ生きつづけているのだ。その鼓動は、讃歌となって空にひろがっていく。そして、厳粛で純粋な夜が始まるのだ。

「風立ちぬ」とは、きびしい現実の宣告であろう。彼は以前に、人里離れた谷間の山小屋で、娘と二人だけで暮らすことを夢みていた。そして今、婚約者である娘と共に高原で暮らすことになる。しかし、夢みていたのとは違って、娘は胸を患っており、冷たいまでに白いサナトリウムである。

秋風が吹くころ波が引くように患者たちは高原を去っていく。でも娘は、そして二人は、きびしい冬に立ち向かっていかなければならない。この冬を越せるかどうかといり重病患者である。「いざ、生きめやも」という詩の掛け声が、彼の、そして二人の生活の言葉であったのだろう。二人は次第に暗い世界につつまれていく。それは地平線の果てに存在する日没の世界である。

時の流れが恐ろしい。しかし、これほど静かな二人だけの時間があっただろうか。二人はしっかり手を握り、見詰め合っていなければ自分も相手も見失ってしまうのだ。うわついた一切の景色が消えて、愛だけが二人のいのちであった。

節子の生きる姿勢には、死のかげの暗さは全くない。まるで川の流れのままに流されていく花弁のような、色づいた屈託のない助界である。恐ろしい死の世界にすら、彼女は、運命にあえて身を委ねるという落着いた心で対していたにちがいない。でも彼に出会ってからは、「何だか生きてみたくなったわ。あなたのお蔭で……」とつぷやかずにはおられないほど、息づいた生が意識としてあらわれてくるのだった。

生きるとは死からのがれることであろう。しかし、もっと深い意味は、死ぬまでの生を、満ちたりだ時間として体験することなのだ。二人のそばには死という冷たい離別がひかえている。二人はそれを敏感に感じながら、素知らぬ顔をしている。

この語らない沈黙の中には、語りつくせない多くの対話があった。何でもないごく静かな日常のやりとりの中にも、互いの愛の光が交差していた。彼は彼女と同化することによって、自分を見い出した。彼女の寝顔を見ることは彼の眠りであり、とだえがちな呼吸は同時に彼の呼吸であった。

一切の雑念を捨てたこの愛の前には、すべてのものが新しくよみがえっでいくのだった。まるで美しい最期のために日々が編まれているような生活。書くことを忘れていた小説家の彼も、ついこの生活の快い波に酔ったため、病める女主人公のもの悲しい死の物語を、心に描きはじめるという罪悪を犯しかけたりした。

自然がほんとに美しく見えるのは、死んでいこうとする者の目にだけである。落葉の匂い、なびく草、鮮やかな山脈、山に立ちもどる夕暮れの白い雲。澄んだ目には、自然のすべてが美しく、意味が探い。彼は、彼女の目を通して、二人でみていた自然であることに、今さらのように気がつくのだった。

秋はやがて冬の中に消える。山々が近づき、雪雲が勤かなくなる。節子の病状も雪のように重く、呼吸は風のように激しくなる。光の消えかかったような、不安な日々がつづく。山頂にかすかに漂っている光、その光も消えると、部屋は薄暗くなってしまう。そして節子も消えていった。

美しい空は、風のある寒い日にしか見られないという。そして、美しい生はきびしい死の中でしか見られないのだ。短い生涯を花咲かせた節子は、彼の思い出の中で生きつづける。

暮れやすい秋の夕べ、私は地平線の彼方に消えていく赤い命を、今日も厳粛な気持で送る。空いっばいに色をひろげたかと思うと、すぐにそれをおさめ、それから呼吸をととのえて、沈黙の色にかわる。すると私の足もとを冷たい風がすくっていく。これが人生なのか。(1738文字)
 

「風立ちぬ」読書感想文の書き方の例②

「風立ちぬ」を読んで

美しく荘重なバッハの調べにのって、軽井沢のとある別荘の中庭に愛のドラマは始まり、雲の中に見え隠れする山あいのサナトリウムで一応の終止符をうちました。「愛」そして「死」それを語らずして人生を論じえるでしょうか。

およそこの世に生まれてきた以上、何ものかに愛を覚えない者はないでしょう。人を人とは思わない者、いつも冷ややかに愛しあう二人を侮蔑の目で眺めている傍観者にさえも、自己愛というものがあります。

自分を愛しえない者も、心の隅のどこかで、乾ききった砂漠の一片のようなその心を潤すべく愛を求めます。

「死」おそろしく厳かな人生の終着。ある人には苫しみであり、ある人は人の世にまだ未練を残していたことでしょう。ある人には喜びであり、ある人は自分の成しえたことに満足を覚えて死んでいったことでしょう。しかし、いかなる場合にもそれは、いいようのない淋しさと、いくばくかの涙をもたらさずにはおきません。

「死」それは無情です。「死を見つめること、それは生を見つめることではないかしら。」とある人は言います。辰雄さん、あなたはどう思うでしょうか。

富士見のサナトリウムでのニカ月半。それは静かな死への戦いでした。しのびよる死のかげに脅えながら、それを打ち消しでもするように、明るく努めたあなたがたの切ない愛。声をたてては二人の愛のロウソクが消えてしまうとでもいうように、ただジッと見つめる……それがあなたがたの幼い愛の姿でした。あなたは結核にむしばまれた彼女の死が、ほとんど確定的であるのを知っていました。

それでもなお哀しい期待をかけるあなたは、彼女より軽いと言われていた患者の不慮の死を、表面では平静を装いながらも、心ひそかに喜び、安堵するという、常識を看板にぶらさげた大人達にはきっと眉をひそめられるであろう心持ちになっていました。だからといって誰があなたを非難できましょう。愛するあまりのその気持を! 

愛する気持から行なうどんな行為にも。「悪」の恪印を押すことはならないのではないかしら。なぜなら、それによって払われる犠牲、大いなる犠牲が、その罪なる行為のすべてをも、洗い清めてくれるのですから。ああ、でもあなたがたの犠牲は大きすぎました。

あなたがたの愛の花束は、彼女の胸で開花した結核のあまりに鮮やかな白い一輪の花を添えて、より崇高になったのでした。「死」という、愛する二人にとっては全く無縁としか思われない行為によってのみしか、あなたがたを洗い清めることはできなかったのでしょうか。

「彼女の死」、それがどんなにあなたを落胆させたことでしょう。きっと悲しすぎて、涙も思うように出なかったでしょうね。それでもあなたは仕合わせです。あなたは思いやりを思いやりとして、犠牲を犠牲として感じないくらい、彼女との愛に慣れきってしまっていて、思わずハッとさせられたことが、一度や二度ではなかったはずですから。

そうして「彼女の死」に対する予告は、あなたがたをむしろ一層固く結びつけました。それはキズついた花が、そうでないものよりいっそう大きく、見事に開花しようとする意志に似てでもいるように…。

今、彼女との想い出を胸に、山小屋にあって、一人静かに暮らしているあなた。いいえ、二人と言うのが本当かもしれません。あなたは日々の生々のどこにでも、彼女の息吹きを、大きく見開かれた眼差しを感じとることができるのですから。彼女のたてる小さな足音さえ気づかって…。ここに「愛」は死を超えて、自然の中に美しく融和したのでした。

愛の日々を経て、一段と太くそして大きくなったあなたは、かぎりない可能性をその内に秘めて、今日も歩みます。″風立ちぬ、いざ生きめやも。” (1508文字)
 

風立ちぬ」読書感想文の書き方の例③

「風立ちぬ」を読んで

季節の移り変わりの描写は、実に美しく、繊細であり、かつ、憂いに似た感情を漂わせている。文章全体に、静かな落ち着きと、悲愴なくらいの重みが感じられ、初めて読んだ時には、その重苦しさだけが、妙に胸に残った。しかし、しだいにこの小説の奥深い情感の中にひき込まれ、憂愁の中に、なんだか一筋のほのかな光のようなものを感じることができたのである。

作者の婚約者節子は、胸を病んでいる。そして、ある日、彼らは、養生のために、山麓のサナトリウムに向かった。そこでの日々はまたたく間に過ぎ去って行く。

節子の容態は日増しに悪化し、喀血までする。そんな中で作者は、節子を愛し続けてい行き止まりであるこんな生活、死をまつだけのこの生活の中で、果たしてお互いが、どれだけ相手を幸福にさせることができるか。彼は、死というものに非常に敏感になって、サナトリウムで一番重症の患者が死んだ時は、神経質なほど節子の身を案じる。いつか死はやってくる。

節子の死は逃れられない。そんな彼女への愛。それはもう死という壁をのりこえたうえでの愛であるとも言えよう。死に直面している節子も、彼への愛を持ち続けていた。あくまで、生きることへの希望をすてなかった。死を前にしても、ただ、作者の愛と信頼をせいいっぱい受けとめて、そして生きることに望みをかけた彼女、私は、そんな彼女をいじらしく、いとしく、そしてかわいそうにさえ思う。

「私たちの今の生活、ずっと後になって思い出したら、どんなに美しいだろう。」二人はこんなことを言い合ったりした。この言葉には決して絶望的な死など感じることはできない。むしろ、彼らの生への希望が、ひしひしと感じられるのだ。そして、また、この言葉の裏側には、死への激しい抵抗を感じることができる。

免れぬ死は、彼らが抱いていた生への希望を、いつもおびやかしていたであろう。彼らは、お互いの愛と信頼とで、必死に、その死へ抵抗していたのではないだろうか。生への希望に満ち満ちていたあの言葉の奥に、避けられない死への必死の抵抗を感じた時、私は、はかない人間の運命を思わざるをえなかったのである。

世の中を離れたサナトリウムでの彼らの生活は、余りにも速くすぎ去っていった。彼らは、お互いに励ましあい、信頼しあいながら誰にも邪魔されることなく、ただ静かに生きた。そして、「死」にむかう重い病の中で、彼らの愛は深められていったのである。

「死」から始まった彼らの幸福。こう言えば、余りにも矛盾してはいるが、私は、「死」を目前にしながら彼らが与えあった「幸福」の意味が、かすかではあるが、わかるような気がするのである。かたわらにいて、いつも自分を見守ってくれる作者の深い至純な愛に、死が近づいていることさえも忘れたのではなかろうか。

互いに愛し愛されていることに一瞬、一瞬の充実を感じたのではなかろうか。そして、彼らの愛と信頼が、深まれば深まるほど、彼女の「幸福」は大きくなっていったのだと思う。自分の愛が作者にとっても絶対に必要であるということを思うと、節子は愛し愛されることの幸福を感じないではおられなかった。それがまた、「生」への希望にも発展していったのではないだろうか。

私は「愛」とか「死」とかいうものについて余り深く考えた経験がなかった。その意味でこの小説は、愛というものがいかに尊いものであるかを知らせてくれたように思う。愛は偉大である。愛や信頼感はあらゆる苦悩をも征服することができ、人間と人間とを深く結びつけるものなのだ。

節子の愛はこの世ではその実を結ばなかったけれども、節子の魂の中に、永遠に生き続けていくことだろう。彼らが与えあった愛は、あくまでも純粋で、あくまでも美しかった。それゆえ、私は、節子の死が果たしてやってきたことに対して、彼らだけの幸福感が余りにもはかなく悲愴に感じられてたまらないのである。

彼女の死は本当に残念に思われるが、彼らの愛はほのかな輝きをもって昇天していくかのように、私には感じられるのである。

節子の死後、作者は「幸福の谷」とよばれる谷を訪れた。そこで彼は、山小屋の明りが谷の一部を明るく照らしているのを見た。その光は、まるで節子を象徴しているかのように私には思える。彼女の愛が作者に無意識のうちに生きる希望を与えている。つまり、節子の愛はいつまでも作者の心の中にあり、作者はそれを見つめながら生きていくように思うのである。

「風立ちぬ。いざ生きめやも。」美しいこの句がとても印象的であった。静けさと憂愁の中に、「生」への希望が息づいていて、私には一筋の光のようにさえ感じられたのである。「生きること」は、永遠に美しく、永遠に光り輝くものであるにちがいない。(1926文字)
 

どの本でも使える読書感想文の構成の例

最後に、オーソドックスな読書感想文の構成例をご紹介いたします。

①なぜこの本を選んだのか
②大まかな内容を手短かに説明
③特に気になった箇所やフレーズを抜き出す(1)
 なぜ気になったのか最近の出来事や自身の思い出とからませて紹介
④特に気になった箇所やフレーズを抜き出す(2)
 なぜ気になったのか最近の出来事や自身の思い出とからませて紹介
⑤著者がこの本を通じ伝えたかったことを想像し考えを書く
⑥この本を読む前と読んだ後とでどのような考え方の変化があったか
⑦この本によって発見したことや反省させられた点など「本からの学び」を書く

【最重要ページ】感想文を書くにあたっての「コツ」「構成」「話の広げ方」などの詳細は下記のページに掲載しています。

読書感想文の書き方のコツ
(テンプレートつき)

 

「人生はその人に何が起こったかではなく、どう感じたかによって決まる」
婚約者の死という現実がおこっても、それをどのように受け止めるかで人生の解釈は大きく変わるものだ。
堀辰雄さんは自分の人生を不幸だとは感じていなかったはずです。。。

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