「沈黙」あらすじと読書感想文の例文【大特集】

こちらでは、読書感想文の題材としても長く利用されている 遠藤周作の名著「沈黙」あらすじや、参考していただけそうな周辺情報感想文の例文5作品を紹介いたします。

おもに中学生高校生が、1200字1600字2000字(原稿用紙3枚、4枚、5枚)の読書感想文を書く際に役立つことを目指し掲載しています。



 
~~目次~~~~~~~~~~~~~~~
「沈黙」のあらすじ
読書感想文の書き方【例文5作】

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「沈黙」は2016年にマーティン・スコセッシ監督により映画化もされています。

「沈黙」あらすじ

島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の司祭で高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは潜伏キリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。

長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前ではキチジローが何度も何度も、ロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。

神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。(Wikipediaより)

 
約10分で分かるあらすじ動画
映画の要点をまとめたものですが、小説の要点でもあります。

詳細な解説動画


 

「沈黙」読書感想文の書き方【例文】

以下に4作品をご紹介いたします。文字数はまちまちですが「書き方」「着眼点」の参考にしていただければと思います。

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「沈黙」を読んで①

「沈黙」を読み終わり、今、再び神とはなにかと考えてみる。神、その言葉はいったい何を意味するものなのか。
読書感想文の書き出し例(入賞21パターン)

江戸時代のキリスト教信者への弾圧、その時代の信者たちのことは知っていた。しかし、こんなに残酷なものとは思ってもみなかった。それに殉教した人々の気もち。だれだって死ぬのはこわいと思う。それがあの一枚の絵を踏むのを拒み死んでいったのだ。信教徒だけでない。キリストを教えた宣教師も……。が、宣教師の中には棄教した人もいたのである。その棄教した宣教師を描いたのがこの小説である。

主人公の司祭ロドリゴは日本に渡り布教する。が、信者たちは次々と捕えられ殺される。司祭も最後には捕えられ棄教するのである。だが、この棄教には大きな意味が含まれているのである。ただの心の弱さではない。私たちが考えも及ばないような大きな意味が含まれていたのだ。

現実から考えて、神などというものは存在するわけはない。昔からの伝説や神話などを読んでもありもしないことばかり書いてある。でも、なにかそう思う気はしない。神とかそういうものを信じることによって人間らしさというものを感じるのである。宗教も、そういった人の心から発したものだろう。それが何人もの人の心を結びつけ、どんなにひどい拷問にも耐えさせたのである。

神の存在。それは人の心に存在する、それは人の良心である、などとよく言う。それだけに司祭は苦しい立場にある。信者たちが目の前で殺されていくのを見ても神は何も言わない。何度も疑惑を感じつつ、ただあきらめに近い気もちで祈るだけだったのである。ただ信じているしかなかったのである。

文中に「おまえは信者より自分が大事なんだろう。おまえが転ぶと言えば彼らは救われる。それなのにおまえは転ぼうとせぬ。教会を彼らのために裏切るのがおそろしいんだ。」と先に教したフィレイラは言う。そして司祭が踏絵に足をかけるとき、「さあ、今までしなかった一番つらい愛の行為をするのだ。」とも言う、という文章があった。

私はここを読むと、いったい人の心を救うのは何か、と思う。拷問をうけていた人は司祭が転んだことによって救われた。神は人の心を理解し助けるという。それだから、神は司祭の心を察しているのだろうか。私には信仰するものがないからわからない。わかるのは、踏絵を踏んでも神の心までも踏んでないということだけである。

殉教することが正しいのか、苦しんでいる人を救うために棄教するのがいいのか。司祭が教したのは、けっして自分が助かりたいからではなく、信者たちを救うためだったのである。

本には、踏むとき司祭が感じた足の痛みは、主の心がのしかかって形だけで踏むことだけではなかった、と書いてある。私はこの司祭の気もちの奥底をさぐりだしたいと思う。自分が今まで信じ続けてきたものを踏む痛み、たとえ形の上でのことであってもそれがどんなに苦しいものか、そしてその痛みを、主イエスはわかってくれるのだろうか。限りない苦しみあと、司祭に与えられたものは日本人の名前と妻だった。

私ならどうしただろうか。その場に立たされないとわからないが、たいてい死のおそろしさには負けてしまったと思う。棄教も、人のことを考えてやるのではなく、自分のことだけを考えるみにくい心をさらけだしてしまうだろう。よく殉教した人に対してあの強い心はどこから生まれたのか、などと言う。それも神を信じているからだろうか。

でも司祭のように棄教した者を弱い心といってしまうことはできない。その教には、大きな意味、殉教した人より以上苦しみ悩んだ、ということが歴史の中では消されてしまっているからである。

沈黙。事実、神は何も言わなかった。そしてそのことには、だれもがふれようとはしなかった。人間は本来、弱いものである。信仰の強さは人間の隠された強さをひきだしたのかもしれない。人間の持ってい理屈では割りだせない何かが、神というものにも表われていると思う。生きていくことのむずかしさに、何かにすがりたくなる。そう思うことが、心の中で神が存在すると信じているからではないだろうか。

沈黙の結論はまだでていない。最後に私に強く残っている文章、「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」その意味を考え続ける。
 

「沈黙」を読んで②

私がこの本を読んだ動機は「沈黙とは何の沈黙だろう・・・」と、そんないいかげんなものだった。しかし、読み始めた瞬間にそんないいかげんな気持ちで、読んでいられなくなった。というのは、いつも私が疑問に思っている事が書かれていたからだ。
読書感想文の書き出し例(入賞21パターン)

私にはキリスト教の親せきがおり、学校には、沢山のシスターがいて、一週間に一度倫理の授業があるそうだ。その倫理の授業では神についてその存在や、色々の事を習う。それによると神は私達が困った時は、奇跡を起こし助けて下さる、ということだった。

私は、その話を素直に信じたかった。でも信じられなかった。私の知っている限りそんな事は起こらない。毎日何十件と起こ交通事故。それによって親兄弟を失い一人ぼっちになった赤ちゃんは、これからどうなるんだろう。生まれた時から寝たっきりの人は、一生土の上を歩く事ができないのだろうか。本当に神が存在するのなら、それらはあまりにも残酷すぎる。神が奇跡を行なうには、小さな事だと言うのか、それともキリスト教の信者でない者には奇跡は起こらないのか。

この小説の主人公、ポルトガル人司祭ドリゴは、キリスト教迫害の最中に日本に渡った。勿論、そんな時代だからロドリゴ信者である百姓達に密かにかくまわれていた。その後山を放浪中、キチジャーという男によって役人に売られ、最後には棄教してしまう。彼はその間に、多くの信者の殉教を見た。それは、いつも想像していたような華々しいものではなく、惨めで辛いものだった。

彼は、そんな時、神の何かを待った。しかし、いつも神は沈黙を守った。そんな部分は、私の、神の存在を否定する気持ちを裏付けしているようで悲しく、そしてじれったかった。本当に神が存在するのなら、どうして自分の為に死んでいく者を黙って見ているのか。私の単純な頭ではわからない。

ロドリゴさえ、時々神の存在を疑っているじゃないか。けれど聖職者でありながら疑った彼を責めることはできないと思う。聖職者であろうとなかろうと、人間というものは弱い生き物だ。そんな人間の姿をキチジローは表わしている。キチジャーは信者であるが、追い詰められると直ぐに棄教してしまう。彼は決して悪人ではない。

役人に嚇されてロドリゴを売ったのも彼の人間としての弱さからだった。自分で自分の弱さを知っているがどうにもならないのである。そんな彼を嘲笑うことはできない。一体、私はどれだけ彼より強いと言えるだろう。神の沈黙がいつまで守られても、人間はどこまでも神を信じていられるだろうか。もしできるとしたら、私にはその人は人間よりむしろ、神に近いほど強い人のように思える。

ロドリゴも処刑や拷問が怖くて棄教したのではない。信者への拷問に対する神の沈黙が、彼の最も愛し尊敬するキリストを踏ませたのだ。信者は拷問に苦しみ、ロドリゴが教しない限り彼等を救うことはできなかった。そんな時、どうすべきか。私は、神は愛だと習った。今、苦しんでいる信者への愛とは何なのだろう。この沈黙し続けることだろうか。

狭い考えだと言われるかもしれないが、私は信者を苦しみから救う事が、彼等への愛だと思う。だからこの時、ロドリゴが踏絵に足をかけた事を当然だという気がした。ロドリゴや他の迫害された人々の立場に立たない人は、神の沈黙を人間に与えられた試練と言い、真実の愛だと言うかもしれない。で実際それに直面したら、そんな事は甘っちょろい理想論じゃないだろうか。

このような私の考え方は狭くて、ひねくれたところがあるかもしれない。でもどうして神は、最後まで沈黙を破らなかったのか。ロドリゴは最後に、自分が今のように、もっと違った形で神を愛するようになる為には、今までのすべてが必要だった。そして、神は沈黙していたのではなかった。

沈黙していたとしても、今までの人生が神について語っていた、と言った。私の狭い心ではそこまで悟った彼を立派だと感じたが、その考えまでは受けとめることができない。しかし、一度は神の沈黙に押し潰されてしまったような彼が、今は神を心から理解し、愛している。

私は、そこに強い人間の姿を見たような気がした。神の沈黙は、それを求めていたのだろうか。けれど、残念ながら私は、まだ本当に神の沈黙を理解できない弱い人間のままで、この本を閉じなければならなかった。
 

「沈黙」を読んで③
  
「沈黙」は江戸時代のキリシタン迫害史を背景に、一人の司祭を通して、「神」と「人間」が語られる非常に重厚な小説であった。私は、この小説の主人公であるセバスチャン・ロドリゴ司祭の苦悩する姿の中に、真の人間を見出したような気がした。
読書感想文の書き出し例(入賞21パターン)

その彼の苦悩とは、神につかえ、神にひたすら祈り続ける司祭としてのものではなく、一人の人間として、神―キリストと、自己への強い疑問であった。”殉教”という名のもとでの農民たちの死。それは、神と幸福の存在しうるパライソへ行くのにしては、あまりにも悲しく、陰惨なものである。

“参ろうや、参ろうや
パライソの寺に参ろうや
パライソの寺とは申すれど‥‥‥
広い寺とは申すれど”

という悲哀を帯びたこの唄を口ずさみ、死への恐怖を、否定しようとする。しかし、最後には、暗い呻き声でしかなくなってしまう。

こんなにみじめで辛い彼らの死を、司祭は、どうすることもできない。自らの命を絶つ事を、厳しく禁じているはずのキリストでさえ、彼らを救いは、しない。どれだけ多くの民が死のうと神は、深い沈黙を破りは、しない。

司祭はその事に、憤り焦燥感を感じる。そして、今まであれほ夢み、又ある時は、永遠の理想像として愛し、信じていた神―キリストの愛」さえ疑うのである。自分を裏切り、役人に売ったキチジローを、自分がどうしても許せないのと同じように、あの人(キリスト)もユダを愛しはしなかったのだと。

私は、彼この思いが、司祭としては、非模範的なものであるとわかるが、彼のような境遇にった者としては、最も自然な考えではないかと思う。私が彼と同じ立場にあったなら、私は神の存在さえ否定してしまったであろう。

彼は、こうして神に疑問を抱きながら、長崎の町を惨めな姿で、役人に引かれていく。何の為に、キリスト教という苗を、日本に持って来たのか、石や侮蔑の言葉を投げつけられる中で、この間をかみしめる時、司祭の胸には、どれだけ大きな絶望と虚無とが去来したことか。

生の苦しさ、難しさを改めて考えさせられた。彼は牢獄の中で考える。最も敬愛した思師フェレイラの教会を裏切り、自分たちを裏切った彼のことを。主は、ユダ見放したのと同じように、フェレイラも、見離された群の中に入れたのだと。そして、そういう事を考えている間にも、捕われたキリシタンたちを虐待する役人の声と、キリシタンの苦しい悲鳴が聞こえてくる。

その声を聞く司祭の心の中には、怒り悲しみの風が吹きすさんでいたことだろう。神は、なぜあれほどまでに、キリシタンたちに、苦しい道を歩かせるのか。なぜ黙っているのか。なぜ救おうとしないのか。司祭がこの疑問を、心の中で強く神に訴えている中で、フェレイラと役人は棄教をすすめに来る。「転べ、転べ」と。

司祭は、初めは、フェレイラのこの態度に怒りと、さげすみで接していたが、最後には、踏絵を踏む。あの人―キリストの顔を、汗と血と泥で汚れた足で。しかし、この司祭の行動は、本当に神を裏切る行為であったのだろうか。彼が転んだ為に多くの農民の命は助かった。神さえできなかった、キリシタンの命を助けるという事を彼は、行なったのだ。自分が永遠に教会から追放され、教会の汚点として残るという、自分にとっては、不名誉な事を代償として。

もちろん彼は、農民たちの生命を救うためだけに転んだのではないだろう。死にたくないという人間の本能ともいうべき、この気持ちが働いた事は、打ち消せない事実であろう。しかし結果的には、最大の愛の行為を行なったのである。人間としてもっとも痛く辛い精神的苦痛を味わって。彼は思う。「自分は、教会を裏切りはしても、決してあの人を裏切ってはいないのだ。」と。

私もこの彼の言葉を真実として素直にうけ入れることができた。キリストが彼の立場であっても、彼と同じようにしたと思えるからだ。主も、きっと民を救う為に教したと思う。自分の精神が傷つき、自国の司祭にどれだけ軽蔑されようとも、踏絵に足をかけたであろう。

最大の「愛」を示す為に。セバスチャン・ロドリゴは、日本人の姓名と家と、妻をもらい「転びのポウロ」と呼ばれながら、長崎でくらした。それは確かに、哀しいことであったろう。しかし彼は、あの人を日本人として今までとはもっとちがった形で愛したのである。それは、どんな事にもくずれない強く深い愛であった。
 

「沈黙」を読んで④

真夜中に、この本を閉じてじっと目を瞑る。初めて映画を見、本を読んだ時の衝撃が甦る。あの時私に投げかけられた疑問、それが今も私の心から離れない。十字架に縛りつけられ、或いは簀巻にされて海に沈んでいった農民達。彼らは棄教すれば自由の身になれると知りながら神を信じて自らの命を捨てた。それほどの勇気を与えたのは何なのだろう。彼らの信じていた神というのはどんなものなのか。
読書感想文の書き出し例(入賞21パターン)

椅子のきしむ音が穴吊りにされた殉教者たちの呻き声に感じられる。どんな迫害を受けても神への信仰を捨てない・・・・・・なんという強さか。人間誰しも生に対する強い執着があるはずなのに。彼らの信仰心は「生きたい」という欲望よりも強いのか。私は信仰を持っていない。無論、神の存在も信じない。だから彼らの信仰とその強さが理解できない。

「生きたい」という欲望、それは人類が地上に姿を現わした時か今日まで不変のものであり、侵すことのできない大前提だと私は思う。それに対して、信仰は人間が考え出したものに過ぎないのではないか。神はいない。私はまさにそう思う。

何よりの証拠に、司祭がどんなに苦しんでも、求めても、神は何の救いも与えなかった。転びバテレンのフェレイラもそう主張した。それは神を信ずる者にとっては、背教者が神を冒した言葉に過ぎないかもしれない。が、実は最も宗教の盲点をつき、その矛盾を真に悟ったものに思われる。こう考えると、ただ一心に神を信じて尊い命を捨てていった者たち、いや井上筑後守の巧妙、卑劣な手管によって惨殺され、或いはじりじりと教を迫られた者たちは、本当に哀れであった。

その悲惨な姿に、私はどうにもがまんがならないのだ。信仰が原始の昔から、またどんな民族の中にもあるのは、人間が弱くそして不完全なものであり、力の及び得ないものに対しては、信仰に頼らずにはいられないからだろう。自然の驚異から原罪に至るまで、そこから人間を守り、救い、許しそして幸せを与えるもの、それが信仰ではなかろうか。

生きる喜び。そうだ、信仰は人間に生きることの尊さを教え、喜びを与えるものであるはずだと私は思う。そうした信仰の中でも、とりわけキリスト教は博愛と平等を説いたすばらしいものだった。しかしそれも、時代の変遷や教会勢力が巨大化するにつれて、世俗的、政治的権力をも掌握してしまった。そうした中から不当な迫害も生みだされる結果となったのであろう。

そして日本でも、国家統一のためには、キリスト教は邪魔なものと考える幕府と、植民地獲得のために、キリスト教を利用しようとするヨーロッパ諸国との間に衝突が起こった。その時日本は、キリスト教を根絶することによってその目的を遂げようとした。信仰が人間の世俗的な浅ましい欲望に支配された時、信ずるが故に死ななければならないという、本来の意味を全く失ったものになってしまったのは、実に恐るべきことだと思う。

そうした中にあって、農民たちは神のためにと死んでいった。神を信じていたからそれを恐れなかった。しかし実は権力者が信者を抹殺しようと謀っていたと考えると、一層がまんがならない。領主の搾取に喘いでいた彼ら貧農にとって、生きることがどれほどの喜びに価するかは疑問である。だからこそ彼らは、天国に行けば苦しみから救われると、単に天国を極楽浄土のように考えていたのかもしれない。

彼らから生きる喜びと、生きる権利さえも剥奪した幕府の弾圧は、何とむごいものであろう。宗教の対立以前に、それは人道的に決して許されない行為だと思う。そんな迫害の極限の中で、必死に「神の沈黙」に対する答えを模索するロドリゴを見る時、私は結局、司祭である彼にとっても、神は真に自己を委ねるものになり得ないのだとつくづく悟った。それに気づくまで彼はどんなに苦しんだことか。

それまで迫害の苦しみに、彼が耐えられたのは、神の救いに対する絶対的確信だった。それは苦しみの中で祈りに化した。しかしそれでも救いを見い出せず、フェレイラの言葉にすっかりその信念を打ち砕かれてしまった時、頼るべきものを失った彼の足はキリストの顔の上にあった。しかしそれを幕府に対する、彼とキリスト教の敗北とは思いたくない。

宗教は人間が考え出したものである限り、完全であろうはずがない。その盲点であった「神の沈黙」、そのつくられた概念を脱し、人間の真の感情に目ざめたのだと私は思いたい。たとえどんなに世の中が進歩しても、この不完全なる人間が存在する限り、また宗教も心の支えとして生き続けるであろう。

しかしそれが一たび世俗的欲望と結びついた時、どんなに恐ろしい結果を招くか、また人間がいかに残酷になり得るか、それを私は心の奥まで知らされた気がする。農民たちもまた司祭たちも、その恐るべき時代にあって、ただひたすらに自己の道を求める以外に、生きる道を見いだせなかった犠牲者であったと思う。
 

「沈黙」を読んで⑤

この本を一気に読み終えた時、私の中には新鮮な感動と共に、割りきれない何かが残った。そして今、感想文を書く段になって、この物語のもつ問題点の多さに、改めて驚いている。

これは、宣教師ロドリゴを巡る背教の書である。罪もない切支丹たちが残酷な拷問の末に、次々と殺されていく。

けれども、神は沈黙し続ける―.神は存在するのか、という問題は、私にとって以前からの疑問だった。私は今まで一度も神を信じたことはないけれど、熱烈信者を見ると一種の羨望のようなものを感じるのは、やはり、何かを信じていたい、縫っていたいという人間の本能だろうか。

かつて、日本のキリスト教信者は、殆ど農民であった。自分が汗を流して作った米も年貢として絞り取られ、貧窮していた彼らにとって、生きること自体が、苦しみの連続であったのだろう。だから、今は苦しいけれど死ねばきっと天国へ行ける、そう信じることだけが、彼らの唯一の生き甲となり救いとなったに違いない。けれど、キリスト教を貫いて死んだ百姓たちは、死の間際まで神を信じ続けたのだろうか。

拷問に耐え得る意志の最後の最後にはやはり、ふっと神の沈黙について疑問を持ったのではないだろうか。切支丹の中には拷問に耐えかねて転んだ者もいたのである。彼らは拷問を恐れた一方、いくら拷問されても、何の奇蹟も行なおうとはしない神に失望して、信を捨てたのではないだろうか。信仰とは、精神的に救われたいという本能であると同時に、人間の弱さだとは言えないだろうか。この物語の中には何度も何度も転びながらも、キリスト教から離れられずにロドリゴに付き纏うキチジローという日本人が登場する。

私は彼の狡猾さを嫌悪したけれど、その狡猾さこそ、理性を捨てた本来の人間の姿、人間の弱さそのものなのだということに気づいた。そして彼は、その弱さ故に、キリスト教を完全に捨てることが出来なかったのではないだろうか。「何の為、こげん責苦ばデウス様は与えられるとか、わしらは何も悪いことばしとらんのに。キチジャーの悲痛な叫びは、転んだ者の叫びのようにも聞こえた。

確かにキチジローは、役人に脅かされれば、踏絵に唾をかけ、聖母を罵るような臆病者だけれど、彼も彼なりに苦しんでいた筈だと私は思う。私はその時、聖書の中のユダを思い出した。キチジローの人間臭さはイエスを敵に売ったユダにも通じる。イエスを裏切った時、ユダもきっと苦しんだに違いない。その苦しみを知りながら、神はどうして彼らを許そうとはしなかったのだろうか。どうして沈黙しているのだろうか。

しかし、百姓たちの生命と引き替えに、ついに踏絵に足をかけようとする“ドビゴの耳に、初めてあの人の声が聞こえるのである。「踏むがいい。私はお前たちの痛さをつため十字架を背負ったのだ。」今まで沈黙し続けていた神が、背教の瞬間にその沈黙を破る。私にはなぜか、このロドリゴの背教のシーンが恰も殉教のそれのように思えて、ひどく鮮烈な印象を覚えた。本国の教会から追求されるのを承知の上で、百姓たちの生命を救うため、彼は自己を犠牲にしたのである。これも殉教とは言えないのだろうか。

ロドリゴが今まで耐えて来られたのは、イエスもまた自分と同じように迫害されて茨の道を歩んだのだと、自分を慰め、無意識のうちにひそかな自負心を抱いていたからではないのだろうか。けれど、私は彼が背を決心した時の苦しみこそ、真のイエスの苦しみではなかったのかと思う。だからこそ、イエスは沈黙を破ったのだろう。それならば、私はロドリゴに、背教の後、もっと安らかな生き方をして貰いたかった。

岡田三右衛門という名を与えられた彼は、どうして自嘲的にしか自己を見つめられなかったのだろうか。神の声に導かれて背したのなら、もっと胸を張って生きても良い筈ではないか。本来のロドリゴはやはり殉教して、後に残ったのは抜け殻の彼であったのだろう。

この物語を通して私は神というものについて随分と考えさせられた。奇蹟一つ起こせずに、ただ共に苦しむことしかできぬイエス。聖書の中の栄光に満ちた姿とは何という違いだろう。しかし、私はそれが神の本来の姿なのだと思う。自分が苦しんでいる時、ああ、神も今、苦しみを共にしてくれているのだと信じることは、その人の心を慰め、励ましてくれるだろう。そんなものはただのごまかしに過ぎないという人もいるだろうが、私はこれが信仰というものなのだと思う。そして、共に苦しんでくれる神というものは、すでに存在しているものではなく、人間自身の中にあり、そこから生まれ出てくるものだと信じたい。
 



 


「自灯明」・・・天はみずから助けるものを助く
 

【最重要ページ】感想文を書くにあたっての「コツ」「構成」「話の広げ方」などの詳細は下記のページに掲載しています。(気になる審査基準も掲載!)


読書感想文の書き方のコツ
(テンプレートつき)

書き方の参考用に、過去の入賞作品の紹介ページも作りましたのでご活用ください。

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